猫と生きてきた人が福祉と医療の入口で立ち尽くす話
目次
はじめに…「その荷物、猫です」~受付で人生が詰む瞬間~
入院や入所の話が出たとき、人はだいたい「病気のこと」「お金のこと」「家族の都合」を考えます。ところが、猫と暮らしてきた人は、そこで一瞬だけ別のことを考えます。「この先、うちの子はどうなる?」と。
ここでいう“うちの子”は、もちろん猫です。家族の中で一番気まぐれで、一番マイペースで、なのに一番こちらの心臓を掴んで離さない、あの生き物です。猫の毛並みって、手の平に「生きてる」って感触が返ってきますよね。撫でると、あっちが先に「よし、許す」みたいな顔をして、こちらが救われる。立場が逆なのに、いつも猫が上手で、こちらはそれを受け入れてしまう。あれは、ただの癒しではなく、暮らしのリズムであり、人生の温度です。
でも現実はどうでしょう。医療や福祉の入口に立った瞬間、人生の温度がスッと下がることがあります。受付のカウンターは冷たいわけじゃないのに、そこで出てくる言葉が、時々とても冷たく聞こえる。「ペットは無理です」「連れてこないでください」「規則なので」。その正しさは分かる。分かり過ぎる。だからこそ、猫と生きてきた人は、抗議というより、立ち尽くすんです。怒鳴りたいのではなく、ただ、どうして良いか分からない。
猫は毛繕いで毛玉を吐くことがあります。知らない場所では落ち着かないこともあります。確かに、集団の場所にそのまま連れて行ける生き物ではない。ここは猫のためにも無理をさせたくない。そう、猫は被害者になり得るし、猫好きはそこを分かっています。分かった上で、なお思うんです。「だからって、猫と暮らしてきた人生を、ここでゼロにするしかないの?」と。
猫を飼ってきた人が、入院や入所のために“猫のいない人生”を強制される。もしそれが当たり前になっているなら、それは社会が優しくなった証拠でしょうか。むしろ逆で、便利で安全なルールが、人間の“人間らしさ”を削っていないか。そんな問いが出てきます。福祉や医療は、命を守る場所です。守るのは正しい。でも、守り方が「人を人として保つ」方向に向いているかどうかは、別の話です。
この話は、猫を病院や施設に入れろ、という単純な主張ではありません。猫にだって都合がある。人にだって都合がある。だからこそ、二択を辞めたいんです。「連れて来る」か「手放す」か。どちらも苦しいなら、その間に道がないのか。猫と人が、少しでも“折れずに済む”第三の道は作れないのか。
猫の日は、猫を褒める日でもありますが、本当は「猫と暮らせる幸せ」を確かめる日です。ならば同時に、「猫と暮らしてきた人が、困った時に立ち尽くさない社会」を考える日でも良いはずです。猫はいつも通り気まぐれで、こちらが勝手に深刻になっても、平然と毛繕いをしているでしょう。だからこそ、私たち人間の方が少し賢くなりたい。賢さとは、冷たくなることではなく、選択肢を増やすことだと信じて。
[広告]第1章…「猫は家族?趣味?」の質問が一番刺さる
猫と暮らしてきた人にとって、一番困る質問があります。「それって家族ですか?それとも趣味ですか?」です。尋ねた側は丁寧に分類したつもりでも、聞かれた側は心の中で一瞬だけ固まります。何故なら、猫は家族であり、趣味であり、同時に“生活の基礎設備”でもあるからです。エアコンや冷蔵庫みたいに言うなって?でも、あながち間違いじゃありません。猫がいると、人はちゃんと起きるし、ちゃんと帰るし、ちゃんと生き延びます。猫にご飯をあげるために起きる。猫が心配だから早めに帰る。猫が寝てる姿を見て「あ、今日も世界は終わってない」と思える。これ、かなり立派な生活機能です。
ところが、医療や福祉の入口は、その生活機能を「えっと…規則で…」の一言でスパッと切り落としがちです。もちろん、現場の人は冷酷だからではありません。むしろ逆で、真面目で、優しくて、忙しいからです。忙しい現場は、優しさを“処理”に変えます。確認、分類、禁止、許可。そうしないと回らない。つまり、猫はまず「ペット」に分類されます。ここで猫好きの心が、静かにギギギと鳴り始めます。「ペット?うちのは“猫”なんですが…」と。
猫は犬よりも、暮らしの中で“同居人感”が強い生き物です。散歩に連れて行って一緒に外へ出るというより、同じ家の空気を吸って、同じ暖かさを分け合っている。こちらが落ち込んでいる時、猫は励ましの言葉をかけません。代わりに、何も知らない顔で目の前にドスンと座り、「ほら、撫でる権利をやろう」とばかりに背中を差し出します。こっちは完全に猫の手の平です。しかも、その手の平が毛だらけ。最高です。
だからこそ、「猫を手放す覚悟」を前提にされると、猫好きは立ち尽くします。手放すって、ただの物理的な別れじゃないんです。朝の“おはよう”、夜の“おやすみ”、冷えた時の“ぬくもり”、気が張っている時の“深呼吸”。そういう小さな儀式がごっそり消えるってことです。人は大きな悲しみより、小さな儀式が消える方がジワジワと効いてきます。しかも猫は、儀式の天才です。毎日同じ時間に「ご飯まだ?」と鳴き、毎日同じ場所で「そこは私の席」と言い、毎日同じ顔で「知らんけど」と言う。人間の心にとって、これがどれだけ支えになることか。
もちろん、猫がいることで困ることもあります。毛繕いで毛玉を吐くことがあるし、環境が変わると落ち着かない子も多い。だから病院や施設が慎重になるのは理解できます。理解できる。できるけど、ここで問いが残ります。「理解できる」と「それしかない」は別です。猫を入れるか、捨てるか。その二択しかない社会って、ちょっと雑じゃないでしょうか。猫と暮らしてきた人が、困った時に“猫を理由に”医療や福祉から遠ざかるなら、それは社会の損失です。人が助けを求めるタイミングで、人生の一部を強制的に切り取られるなら、そりゃ誰もが足を止めてしまいます。
猫好きは、無茶を言いたいわけじゃありません。「今すぐ病棟に猫を放て!」なんて言ったら、猫が一番困ります。猫は知らない場所でヒーローになりません。たぶん物陰で「帰りたい」と目で訴えます。だからこそ、猫好きが求めているのは、猫を連れて来る権利というより、「猫と生きてきた人生を、ゼロにしないでくれ」という感覚の尊重なんです。
この章では、まずそれを言葉にしました。猫は“趣味”の枠に収まりません。猫は“家族”という言葉でも足りないことがあります。猫は、生活の温度であり、人が人でいられるためのスイッチです。次の章では、何故、現場が極端になりやすいのか、その正体を、責めずにユーモアを交えてほどいていきます。現場の人も猫好きも、どっちも悪者にしないまま、話を前へ進めましょう。
第2章…完全シャットダウンの正体はだいたい“良かれと思って”である
ここで、病院や施設を悪役にしないために、1つだけ確認しておきます。現場の人は、猫嫌いだからシャットダウンしているわけじゃありません。むしろ、猫好きが普通に混ざっています。夜勤明けにスマホを開くと、猫の動画で笑ってる職員さんもいます。白衣のポケットの中に、こっそり肉球の付いたボールペンを忍ばせてる人もいます。あれ、見つけるとちょっと嬉しいですよね。「あ、この人、私と同じ種族だ」って。
それでも、入口で「無理です」と言われる。何故か。答えは、たぶんシンプルです。現場は“良かれと思って”で動いているからです。良かれと思って、決める。良かれと思って、統一する。良かれと思って、例外を作らない。例外を作ると、次から次へと例外が増えて、最後は誰も守れなくなる。現場ってそういう場所です。今日だけの優しさが、明日の混乱になる。だからこそ、入口は硬い。硬いけど、冷たいとは限らない。硬いのは、守るためです。
でも、猫好きからすると、その“守る”が時々、やり過ぎに見えるんですよね。猫は毛繕いで毛玉を吐くことがある。確かに。猫は知らない場所で落ち着かない。確かに。だから「ゼロ」にする。……うん、そのロジック、分かる。でも、分かるのに、心が追いつかない。何故なら、猫好きは日常でずっと“ゼロじゃない工夫”をして生きているからです。
猫が吐いたら拭く。猫が怖がったら距離を取る。猫が気分じゃなければ待つ。猫の都合に合わせて、こちらが賢くなる。猫との生活は、元々「完全」じゃありません。むしろ「完全」と逆方向です。予定通りにいかないし、言葉も通じないし、機嫌でルールが変わる。それでも回るのは、人間が工夫するからです。猫好きは、工夫することに慣れています。だから「完全シャットダウン」が、ものすごく不自然に見える。「え、全部ゼロにするのが最適解なの?」って。
現場の視点に立つと、こういう事情もあります。病院も施設も、猫のことだけを見ていない。そこには、猫が好きな人もいれば、猫が怖い人もいる。猫の毛に反応する人もいる。静かな環境が必要な人もいる。さらに言えば、猫そのものよりも“運用”が怖いんです。誰が連れてくるのか、いつ、どこで、どうやって。途中で逃げたら?鳴いたら?同室者が嫌がったら?猫が体調を崩したら?猫がストレスで爪を立てたら?猫が悪いわけじゃないのに、事故の責任は全部、人間側に来る。現場は、そこで止まります。「想像できるトラブルは、起こる」って知っているからです。
ただ、ここで言いたいのは、現場が間違っている、という話ではありません。現場が選ぶ“最小の混乱”が、猫と生きてきた人にとって“最大の喪失”になっている、という話です。現場の合理性と、本人の人生観が、入口で衝突している。そこにあるのは、善意と善意のぶつかり合いです。片方は「皆を守りたい」。もう片方は「自分の人生を捨てたくない」。どっちも正しい。だからつらい。
そしてもう1つ、猫好きの心を折るポイントがあります。それは、入口が“話を聞く前に終わる”ことです。猫好きは、交渉をしたいわけじゃありません。まず、気持ちを置く場所が欲しいだけです。「分かりますよ」と言って欲しい。たったそれだけで、人は立ち尽くさずに済むことがあります。でも入口は忙しい。忙しい入口は、共感より先にチェック項目が出てきます。ここで猫好きは、心の中で静かにこう呟きます。「私は今、医療と福祉を受けに来たのに、先に“猫を諦める試験”を受けている気がする」と。
じゃあ、どうすればいいのか。ここでようやく、次の章の出番です。猫を入れるか、捨てるか。その二択を、社会が“便利だから”という理由だけで固定して良いのか?猫と生きてきた人が、立ち尽くさないための第三の道は作れないのか。猫好きは、無茶を言うつもりはありません。猫に無理をさせない形で、人に無理をさせない形を探したいだけです。
次の章では、その「第三の道」を、真面目に、でもちゃんと笑えるように提案していきます。だって猫は、深刻な会議の真ん中でも、平気で毛繕いを始めますからね。人間も、少しだけ肩の力を抜いて考えてみましょう。
第3章…二択をやめよう~「連れて来る」でも「捨てる」でもない第三の道~
二択って、たいてい人を追い詰めます。「猫は入れません」で終わると、猫好きは頭の中で勝手に続きを作ってしまうんです。「じゃあ、猫を捨てろってこと?」と。もちろん現場はそんな乱暴な意味で言っていないのに、入口の言葉が短いほど、受け取る側の想像は最悪の方向に伸びがちです。猫のヒゲみたいに、ピンと。
だからここで、二択を辞めます。猫を無理に連れて来ないことと、猫を人生から消さないことは、両立できます。大事なのは「猫を病棟に入れるかどうか」より先に、「猫と生きてきた人が立ち尽くさない仕組み」を作ることです。猫も人も折れない第三の道。ちゃんとあります。
まず1つ目は、猫の“後見”を先に決めることです。言葉が堅いので、猫好きらしく言い換えましょう。「猫の親戚を作る」です。入院や入所が決まってから探すと、だいたいパニックになります。猫は冷静に毛繕いしていますが、人間は毛繕いどころじゃありません。だから、元気なうちに「もしもの時の猫係」を決めておく。家族でも友人でも、近所の猫好きでも良い。大切なのは、“頼み方”までセットにすることです。「餌はこれ」「薬はこれ」「抱っこは嫌がる」「爪切りは戦争になる」みたいな、うちの猫の取扱説明書を作っておく。ここで笑って良いんです。猫の説明書はだいたい最後にこう書かれます。「機嫌は日替わりです。ご了承ください」と。人間の方がそれで救われます。
そして2つ目は、“会えない期間”をただの我慢にしないことです。猫好きが本当に欲しいのは、猫そのものというより、猫がくれていた生活の温度です。ならば温度を運ぶ方法を作れば良い。ホスト家族にお願いして、猫の写真を毎日1枚だけ送ってもらうのも良いけれど、無難に見えるなら、もう一歩やりましょう。「猫からの連絡」を来ることにするんです。猫が書けない?そこは家族が代筆です。「本日の報告。昼寝5回。ドヤ顔1回。悪さ2回。反省0回。」これだけで笑ってしまえる。笑うと、人は少し回復する元気が湧きます。面会って、必ずしも対面だけじゃありません。心が戻ってくるなら、それは立派な面会です。
3つ目は、社会側の“中間地帯”を増やすことです。ここが今回の記事の芯です。完全禁止か、完全自由か。その間に、いくらでも設計は出来ます。病棟やフロアに猫を入れない代わりに、外来の動線とは分けた場所に短時間の「猫面会スペース」を作る。施設なら庭や別室で、予約制で10分だけ会えるようにする。猫に無理をさせないために、時間を短くする。猫が落ち着けるキャリーを使う。慣れている家族が傍にいる。こういう条件を揃えると、「猫も人も消耗しない面会」になっていきます。
もちろん、全部の病院や施設で今すぐ出来るわけではありません。でも、だからこそ言いたいんです。出来るか出来ないかの前に、「二択しかないのは雑だ」と。福祉や医療が“守るためにルールが必要”なのは分かる。でも、そのルールが「人生を丸ごと捨ててから来い」になってしまうなら、守っているのは命だけで、人間らしさは置き去りになります。猫と暮らしてきた人は、命と一緒に温度も守りたいんです。温度がないと、助かった後に生きる理由が薄くなるから。
第三の道は、特別な人の我儘ではありません。むしろ、誰にでも起こり得る「もしも」を、少しだけ優しくする仕組みです。猫を愛してきた人生を、医療や福祉の入口でゼロにしない。そのために必要なのは、猫を持ち込む勇気ではなく、二択を辞める知恵です。
次の章では、ここで出てきた「温度」という言葉を、もっとはっきりさせます。猫がくれたのは癒しだけじゃない。人間が人間でいるためのスイッチだった――その話を、猫が鼻で笑いそうなくらい真面目に、でもちゃんと楽しく続けます。
第4章…猫がくれたのは癒しじゃない~人間らしさのスイッチだ~
「猫がいると癒されるよね」という言葉、もちろん正しいんです。正しいんだけど、猫好きの胸には時々、少しだけ引っかかります。癒しって、なんだか“娯楽枠”に押し込まれる感じがするからです。猫はマッサージ機じゃない。アロマキャンドルでもない。ましてや、落ち込んだ人を励ますために派遣される天使でもない。猫は、ただの猫です。気まぐれで、自己中心で、なのに不思議とこちらの人生の中心に座ってしまう、あの猫です。
猫がくれるのは、癒しよりもっと生活寄りのものです。例えば「起きる理由」。人間は一人でも生きられますが、一人だと起きる理由が薄くなります。猫がいると、起きる理由が勝手に増えます。「腹が減った」と鳴く。皿の前に座る。目で圧を掛ける。人間の言い訳を許さない。猫は自分の都合で動いているだけなのに、結果的に人間の生活リズムが整います。これ、福祉の言葉で言えば立派な“生活機能の維持”です。猫は専門用語を知らないだけで、やっていることは、とても凄い。
それから「話す理由」。猫がいる家では、人は独り言が増えます。「何してんの」「可愛いな」「そこ邪魔だな」「でも可愛いな」。この一連のやり取りは、猫が返事をしなくても成立します。猫はたまに薄目で「煩い」と言いますが、そこも含めて会話です。入院や入所でこの“話す理由”が消えると、人は驚くほど静かになります。静かになるのが悪いわけじゃない。でも、静か過ぎると心も止まりやすい。猫は、会話の火種を日常に置いてくれていたんです。
そして、猫がくれる最大のものは「触れる理由」です。人は大人になるほど、人に触れ難くなります。触れるって、許可が要るからです。家族でも、いつでも抱きしめられるわけじゃない。気を遣う。照れる。遠慮する。ところが猫は、触る側と触られる側の主導権が、絶妙に逆転しています。猫が来た時だけ触れる。猫が許した時だけ触れる。猫が嫌な時は終わり。つまり、人間は“触れること”を、猫に教わっている。猫の毛並みが絶品なのは、触感だけじゃなくて、「触れていい時間」をくれるからなんです。撫でたら、撫でた分だけ、こちらの肩の力が抜ける。たまに猫が先に伸びをして、こちらを置き去りにしていく。そこがまた良い。人間の感情を引きずらないのが猫の美学です。
ここまでくると、猫が「癒し」以上の存在だと分かります。猫は、人間らしさのスイッチです。起きる、話す、触れる、世話をする、笑う、怒る、許す。そういう人間の基本動作を、毎日ちょっとずつ起動させてくれる。だから、医療や福祉の入口で「猫は無理です」と言われた瞬間、猫好きは単に寂しいのではなく、自分のスイッチが抜かれた感覚になります。本人ですら言葉に出来ないけれど、体は分かってしまう。「あ、ここから先は、私が私でいるための仕掛けが減る」と。
ここで大事なのは、猫を連れて来ることだけが答えじゃない、という点です。猫に無理をさせない。現場に無理をさせない。その上で、人間のスイッチをどう残すか。第3の道はここにあります。猫の写真が効くのは、猫そのものというより、スイッチが一瞬入るからです。猫の動画で笑えるのも、スイッチが入るからです。猫の話を誰かに聞いてもらうだけでも、スイッチが入る。だから病院や施設が出来ることは、猫を受け入れるかどうか以前に、「猫と生きてきた人のスイッチを、ゼロにしない配慮」なんです。
猫好きの人に、こう声を掛けられる職員さんがいたら最高です。「猫の写真、あります?今日は見せてください」。たったそれだけで、入口の冷たさは和らぎます。猫は病棟に入らなくても、会話の中で入って来られる。猫はこの世界のあちこちで愛されている。ならば、医療と福祉だけがその愛を無視する必要はない。守りの中にも、人らしさの居場所は作れます。
猫は世界中で愛されて、家庭で寄り添う動物として生きています。だからこそ、猫と共に暮らしてきた人の人生観を「規則」で一刀両断にしない社会であって欲しい。猫を飼ってきた人が、困った時に立ち尽くさないように。猫がくれた人間らしさを、入口で落とさないように。
次はいよいよ締めです。猫の日に言いたいことを、猫の顔色を伺いながら、でもちゃんと人間の言葉でまとめます。猫はきっと最後まで興味なさそうに毛繕いをしていますが、それで良いんです。猫が気まぐれである限り、人間は「人間らしさ」を考え続けられますから。
[広告]まとめ…福祉と医療は“守る場所”で終わるな~猫の日に言いたいこと~
猫の日というと、「ニャンニャンニャン」で盛り上がって、猫グッズが増えて、SNSが猫で埋まって、世界がちょっとだけ平和になる日です。猫は何もしていないのに、勝手に人間の心がほどける。猫の偉さは、働かないところにあります。働かないのに、世界を支えている。あの堂々たるニート力(失礼)に、人間は何度も救われています。
でも、猫の日にこそ考えたいことがあります。猫と生きてきた人が、福祉と医療の入口で立ち尽くしてしまう現実です。猫は病棟やフロアに入れない。分かる。猫にとっても、知らない匂いと音の世界はしんどいことがある。現場だって、守るべき人がたくさんいる。だから「無理です」と言うしかない場面は確かにここにある。
ただ、それで終わっていいのか。ここが本題でした。猫を入れるか、手放すか。その二択だけで社会が回っているなら、それは便利だけれど、雑です。雑な設計は、人を削ります。猫好きが守ってきた生活の温度、起きる理由、話す理由、触れる理由を、入口でごっそり落としてしまう。命は守れても、人間らしさが薄くなる。そういう守り方になっていないか、猫の日に一度だけ立ち止まって見直したいのです。
この記事が言いたかったのは、猫を病院や施設に放て、という話ではありません。猫に無理をさせないのは大前提です。猫はヒーローではなく、ただの猫です。知らない場所で誰かを癒すより、たぶんキャリーの隅で「帰りたい」と訴えます。だからこそ、私たち人間の側が賢くなる。二択を辞める。第3の道を作る。猫の後見を決めておく仕組み、短時間の面会という中間地帯、猫の話をしても良い空気、写真を見せて良い時間。猫を連れて来なくても、猫と生きてきた人生をゼロにしない工夫は、いくつもあります。
そして、これは猫好きだけの問題ではありません。人が人でいるための要素は、本来、出来るだけ多く残されるべきです。趣味か家族か、という分類で切ってしまう前に、その人の生活の土台として何があったのかを見て欲しい。医療と福祉は、守る場所であると同時に、戻っていく場所でもあるはずです。戻る先に温度が残っているかどうかで、回復の意味は変わります。
猫は今日も気まぐれで、こちらの深刻さなど知らない顔で毛繕いをしています。けれど、その姿を見て「まあ、明日でもいいか」と思えるのが人間です。猫が教えてくれるのは、完璧な生活ではなく、折れない生活です。ならば、福祉と医療も、完璧な安全だけでなく、折れない人間らしさを一緒に守って欲しい。
猫の日は、猫を褒める日であり、猫と暮らせる幸せを確かめる日です。だからもう一つ、付け足します。猫と生きてきた人が、困った時に立ち尽くさない社会を作ろう。猫はたぶん興味ありません。でも人間は、そういうことを考えられる生き物です。猫に負けないくらい、しぶとく優しくなりましょう。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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