6月4日は虫の日~追い払う前に虫の都合を少しだけ考えてみることにした~

[ 季節と行事 ]

はじめに…虫だらけの季節にこちらの都合だけで世界を見ていないか?

6月に入ると、外の空気は急に賑やかになります。庭先にも、街路樹の周りにも、玄関灯の近くにも、小さな命がワラワラと現れて、こちらは早くも右往左往です。腕に何か止まっただけで「ヒャっ」となる日もあれば、網戸の隙間を見つけた虫に先を越されて、「そこ入るのかい!」と小さく負けを認める夜もあります。

けれど、虫たちの側から見たら、初夏はただの迷惑シーズンではありません。恋の季節でもあり、ご飯探しの季節でもあり、命を繋ぐために忙しく飛び回る季節でもあります。人には人の都合があり、虫には虫の都合がある。その当たり前にふと気づくと、見えてくる景色が少し変わる気がします。

虫をただ遠ざけるだけでなく、互いにぶつかりにくい距離を考えてみると、夏の入口は少しだけ穏やかになります。

好きになれと言われると、それはそれで困ります。私の場合、苦手なものは苦手ですし、刺されたり、家の中で鉢合わせしたりしたら、平常心などたちまちどこかへ飛んでいきます。とはいえ、何でもかんでも敵認定してしまうと、こちらの気持ちまでささくれ立ってしまうもの。ならば、暮らしを守りながら、虫の動きにもほんの少し目を向けてみる。そんな発想で虫の日を眺めてみると、初夏の景色は意外と奥行きたっぷりです。

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第1章…虫の楽しみは恋人探しとエサだけなのか?

虫を見ていると、つい人間の物差しで考えてしまいます。あれは恋人探し中かな?これはご飯探しかな?木に止まっているのは休憩かな?と。そこまではだいたい合っていそうなのですが、どうやら虫の毎日は、もう少し複雑で千差万別です。こちらが「食べる・増える・休む」くらいでまとめたくなるところを、虫たちはもっと細かく、もっと必死に生きています。

空中でじっと滞空しているクマバチのような虫を見ると、働いていないようで、妙に余裕があるようにも見えます。けれど、あれも立派な時間です。相手を探したり、縄張りを見張ったり、危険を避けたり、小さな体で風を読んだりしているのかもしれません。花に集まる虫も、ただ蜜をなめて「美味いなあ」で終わっているわけではなく、次の移動先を探し、身を守り、命を繋ぐための段取りを進めています。人間でいえば、食事しながら連絡して、予定を組み、足元まで見ているようなものです。忙しい。実に忙しい。

虫の暮らしは、のんびり見えて、実は一瞬一瞬がかなり本気です。

しかも、虫の「休む」も、人間のゴロ寝とは少し違います。葉の裏や木陰でじっとしている時間も、ただサボっているのではなく、体を守り、熱を逃がし、敵の目を避けるための静かな工夫です。毛繕いのようなしぐさだって、身嗜み半分、命綱半分といったところでしょう。こちらは洗面所で顔を洗って髪を整えるだけですが、向こうは整えないと生死に関わるかもしれません。そう思うと、気楽に見えていた虫の動きにも、電光石火の判断が詰まっている気がしてきます。

もう1つ面白いのは、虫の一生がとても短いことです。短いからこそ、迷っている暇がない。春から夏にかけての虫たちが、急に世界の主役みたいな顔で飛び回るのは、その季節に賭けているからかもしれません。明日も来月もあるつもりで動く人間とは、時間の濃さが随分と違います。こちらが「また今度やろう」と後回しにしている間に、虫の世界では恋も、食事も、移動も、命がけで進んでいく。そう考えると、少し胸を打たれます。いや、家の中に入ってくるのは勘弁して欲しいのですが、そこはそれ、話が別です。

虫の楽しみを人間の言葉で無理やり並べるなら、恋人探しとエサ探しだけでは足りません。隠れること、逃げること、整えること、産む場所を選ぶこと、相手や仲間に合図を送ること。どれも小さな体で生き延びるための大仕事です。虫の日に眺めてみたいのは、虫の種類の多さだけではなく、その一匹一匹が持っている暮らしの忙しさなのだと思います。


第2章…大事なのは好き嫌いよりもまずは「分けること」

虫の話になると、どうしても「好きか嫌いか」で場が割れます。平気な人は平気ですし、苦手な人は本当に苦手です。羽音だけで肩が竦む人もいれば、手の平に乗せて眺められる人もいます。この差はなかなか埋まりません。ならば無理に埋めなくて良くて、先に考えたいのは感情の勝敗ではなく、暮らしの配置です。虫の日にちょうど似合うのは、好きになる努力より、ぶつかりにくくする知恵なのかもしれません。

人は言葉で線を引きます。「ここは家」「ここは庭」「ここから先は入らないで欲しい」。けれど虫には、その境界線が見えません。玄関も、窓も、ベランダも、虫から見れば風が通り、光があって、時には居心地まで良い場所です。こちらが「そこは私の生活圏なんですけど…」と思っても、向こうは知らない顔です。まぁそうです。表札を読んで入ってくるわけではありません。

そこで大事になるのが、好き嫌いの前に住み分けという考え方です。敵か味方かと切ってしまうと、話はすぐに荒くなります。でも、「人が落ち着きたい場所」と「虫が動きやすい場所」を重ね過ぎないようにする、と思うと急に現実的になります。玄関先、洗濯物、台所、寝室の窓。この辺りは人の平穏を守りたい場所です。一方で、土や草木や花の近くは、虫にとって意味のある場所になりやすい。だったら、全部を一か所で争うのではなく、最初から少し離して考えた方が穏当です。

共存は、仲良くすることより、重なり過ぎないことから始まります。

この発想の良いところは、虫が好きな人にも苦手な人にも使えることです。虫が好きな人は、自然を眺める楽しみを残しながら暮らしを守れます。苦手な人は、無理に心を広くしなくても良くなります。「全部嫌だ!」でも、「全部怖い!」でも構わないのです。その気持ちを責めるより、ではどこまでなら大丈夫か?どこから先は守りたいかを決めた方が、気持ちも暮らしも整います。十人十色どころか、昨日は平気だったのに今日はダメ、という日まであります。虫との距離感は、案外こちらの体調にも左右されます。

分けるというのは、冷たいことではありません。むしろ混線しないための優しさです。人の暮らしを守る線を引きつつ、虫にも虫の居場所があると考える。白黒明快に片づけず、ほどよく離しておく。そこに少し余白が生まれます。夏の入口の空気が荒れやすいのは、暑さだけでなく、こちらの気持ちまで忙しなくなるからかもしれません。そんな時こそ、追い払うか我慢するかの二択ではなく、分けるという静かな発想が効いてきます。

虫の日は、虫を好きになる日でなくても構いません。人の暮らしの輪郭を見直し、自然との間にちょうど良い距離という線を引いてみる日。それだけでも、見える景色はだいぶ変わります。近づき過ぎると騒ぎになり、離れ過ぎると何も分からない。その間にある、ほど良い距離こそ、心を守る場所なのだと思います。

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第3章…虫は言葉でなく場所で動く~虫好みを使って距離を選ぶ~

虫に「こっちへどうぞ」も「そこは遠慮してください」も、日本語では通じません。けれど、光、湿り気、におい、花、落ち葉、風通し。そういう条件には、ちゃんと反応します。人が言葉で暮らすなら、虫は場所で暮らす。そう考えると、追いかけ回さなくても出来ることが見えてきます。

玄関灯に虫が寄りやすいなら、夜の明かりの置き方を見直す。家のすぐ傍に湿った植木鉢や受け皿の水が残っているなら、その小さな潤いは虫にとって快適な休憩所かもしれません。花を楽しみたいなら、玄関の真正面ではなく、少しだけ離れた場所に移すだけでも空気は変わります。落ち葉や土の気配を残したい時も、生活の動線から外した一角に寄せると、虫と人が真正面からぶつかりにくくなります。適材適所とはよく言ったもので、家にも庭にも、それぞれ向いている役割があります。

虫を減らしたい時ほど、虫を嫌うより先に、虫が喜ぶ条件を置く場所を選ぶことが大切です。

この考え方の良いところは、好き嫌いの差をそのまま受け止められることです。窓の向こうに蝶が見えるくらいなら平気、でも洗濯物の近くは嫌。庭の隅に小さな命がいるのは気にならない、でも玄関の取っ手で待ち伏せされると心臓が忙しい。そんな距離感は人それぞれです。十人十色どころか、昨日は平気でも今日はダメ、ということまであります。梅雨時の疲れた夕方に羽音がしたら、こちらの余裕もどこかへ飛んでいきます。虫の問題は、虫だけでなく人の機嫌とも関係が深いのです。

だからこそ、家の周りを「全部、綺麗にして全部なくす」ではなく、「ここは人の安心を優先」「ここは緩衝地帯」「ここは自然の気配を少し残す」と分けて考えると、気持ちが楽になります。台所や寝室周りは人の暮らしを守る場所。庭の外れや塀際は、虫が少し落ち着いても良い場所。そんなふうに輪郭を作ると、虫との付き合いは試行錯誤の連続でも、ただの消耗戦にはなりません。

虫好みを知ることは、虫を歓迎することとは違います。人の暮らしを守りながら、虫にも「そこじゃない方向」を示していくことです。近くて遠い、遠くて見える、そのほどよい距離が出来ると、初夏の景色は少し和らぎます。虫を相手に説教しても始まりませんが、場所なら変えられます。そこに、人の知恵の出番があります。


第4章…虫の楽園は誰かの狩り場にもなる

虫が過ごしやすい場所を整える。そこまでは、とても優しい発想です。けれど自然は、そこで話が終わりません。虫が集まる場所は、虫を食べる側にとっても都合の良い場所になります。花の傍に小さな虫が集まれば、クモが待ち、鳥が気づき、夜の灯りに虫が寄れば、それを狙う生き物まで近づいてきます。風流に見える草叢が、誰かにとっては立派な食事処というわけです。長閑な顔をして、自然はなかなか油断できません。

虫だけを都合よく呼んで、虫だけを静かに眺める。そんな夢の庭があれば嬉しいのですが、現実は弱肉強食の気配も混じります。落ち葉があり、湿り気があり、小さな虫が増えれば、そこにクモやカエルやトカゲのような捕食側が寄ってくることもあります。さらに環境によっては、その先の生き物まで気配を感じ取るかもしれません。蛇のような存在も、いきなり虫だけを目当てに来るとは限らなくても、虫を食べる生き物が動きやすい場所には、巡り巡って近づくことがあります。自然の輪は、思ったより長く繋がっています。

だから、虫好みの場所を作るなら、場所選びがますます大切になります。玄関のすぐ横、洗濯物の真下、子どもがよくしゃがみ込む通路脇。そういう生活のど真ん中に「小さな自然の楽園」を置くと、人が驚く場面まで増えやすくなります。虫が好きな人でも、朝のゴミ出しでクモの巣に顔から突っ込むと、流石に達観できません。こちらも人間です。修行ではないのです。

虫との距離を整えるなら、虫だけでなく、その先に動く命の連なりまで想像しておくと暮らしはグッと穏やかになります。

この章で見たいのは、「だから虫を呼ぶのはやめよう」という話ではありません。そうではなく、誘うなら誘うで、どこに、どのくらい遠くに、何を集めるのかを考えることです。家から少し離れた場所に花や土の気配を寄せるのか、夜の灯りは人の出入り口から少しズラすのか、水気は残し過ぎないのか。そうした工夫は、虫との住み分けだけでなく、捕食する側との距離調整にも繋がります。虫を理解すると、暮らしの設計まで細やかになります。これはなかなか痛快です。

人はつい、目の前の一匹だけを見てしまいます。けれど自然は、点ではなく流れで動いています。虫がいて、虫を食べるものがいて、そのまた先がいる。そう思うと、庭も玄関も、ただの「出入り口」や「空きスペース」ではなくなります。初夏の小さな景色の中にも、ちゃんと命の連鎖が息づいているのです。虫の日に学びたいのは、虫の名前の多さだけではありません。1つの小さな命の向こうに、もう1つ、さらにその先へと続く気配があること。そこに気づくと、追い払うだけではない、少し賢くて少し優しい虫たちとの付き合い方が見えてきます。

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まとめ…虫の日は人の暮らしと自然の距離感を整える日

虫の日は、虫を好きになるか嫌いになるかを決める日ではないのかもしれません。人の暮らしには守りたい場所があり、虫には動きたくなる場所がある。その違いに気づくだけで、夏の入口の見え方は随分と変わります。刺されたくない、家には入って欲しくない、その気持ちはもちろん大切です。けれど、ただ腹を立てるだけよりも、虫の都合を少し知って、距離を整える方が、心まで荒れにくくなります。

恋を探す虫、食べものを探す虫、身を守る虫、誰かに食べられながら命の輪を支える虫。小さな体で右往左往しているように見えて、その一匹一匹にちゃんと暮らしがあります。人もまた、玄関や窓や庭のすみを工夫しながら、自分の平穏を守って生きています。似ているようで違い、違うようで少し似ている。その関係が見えてくると、虫のいる季節も少しだけ味わい深くなります。

共存とは、我慢大会ではなく、互いがぶつかり難い場所を見つけていくことです。

夏になるたびに虫に振り回されるのは、もう風物詩の1つみたいなものです。それでも、見つけた瞬間に全部を敵扱いするより、「この子は何を求めてここに来たのだろう?」と一拍置いて考えられたら、こちらの気持ちにも小さな余裕が生まれます。もちろん、家の中に入ってきたら話は別です。そこは遠慮なく、こちらの暮らしを守りましょう。情けと網戸は、使いどころが大事です。

虫の日は、小さな命を通して、人の暮らしの輪郭を見直す日でもあります。遠ざける知恵も、誘導する工夫も、少し離れて眺める心のゆとりも、みんな夏を穏やかに過ごすための道具です。初夏の空気がざわつく頃、足元や灯りの周りにいる小さな命たちを見て、「今年も始まったな」と笑えるくらいの余裕が持てたなら、それだけでも上々です。

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