河童はなぜ愛されるのか?〜いたずらと教訓と8月8日の河童祭り〜

[ 8月の記事 ]

はじめに…ぬるりと現れたその正体は――!?

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夕暮れの川べりに、ひときわ冷たい風が吹いたら…それはきっと、やつの仕業。

水面がポチャンと揺れて、皿がきらりと光ったら、ほら、来た来た。

日本人なら一度は聞いたことがあるけれど、実際に見た人はまずいない。

にもかかわらず、誰もがなんとなく知っている存在――そう、河童(かっぱ)である。

ちょっとイタズラ、ちょっとこわい、でもなぜか憎めない。

そんな不思議な魅力を湛えた河童は、昔話だけじゃなく、文学や伝説、そして今も続くお祭りのなかで、ちゃっかり生き続けているのだ。

特に注目すべきは8月8日。

末広がりの八がふたつ並んだこの日、福岡県久留米市の田主丸では、毎年「河童祭り」なる愉快で粋なお祭りが開かれている。

“葉っぱ”から“かっぱ”へ。

語呂合わせの妙と、河童たちの存在感がドッキングした、まさに日本らしい記念日である🩷。

さあ今回は、そんな河童の世界にぐぐっと潜ってみよう。

ただし油断は禁物。

お皿の水が乾いてしまわないうちに、話を進めるとしよう。

ぬるりと、じわりと、心の隙間に忍び寄る、不思議と笑いと教訓をお届けします。

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第1章…お皿ときゅうりとちょっぴりの愛嬌


さてさて、ここで改めてお伝えしておこう。

河童という存在は、一体どんな姿をしているのか。

もちろん、見たことがある人はそうそういないはずだ。

けれども誰もがなぜか「皿がある」「きゅうりが好き」「甲羅を背負っている」という共通認識を持っている。

しかもなぜか、相撲好きで、川に住んでいる。

おまけに、しりこだまを抜くらしい。

いや、もう情報が渋滞している。

けれどそれが、河童というキャラの魅力なのである。

皿が乾くと弱るとか、礼儀を守ると頭を下げてお辞儀するから水がこぼれて力が抜けるとか、そんな細かい設定までついてくる。

どこか武士のような、でもお調子者のような。ちょっぴりズルくて、でも義理堅い。

まるで昔の人間の縮図みたいな性格だ。

そりゃあ昔話にも、文学にも、民話にも引っ張りだこになるわけである。

それにしても、なぜ河童はそんなに“いる前提”で語られてきたのだろう?

それはたぶん、人々が“水”という存在に、畏れと感謝と、ほんの少しのユーモアを込めていたから。

水は恵みであり、時に災いももたらす。

その川辺に、皿を光らせて現れる者がいる…と考えることで、自然とつながっていたのかもしれない。

おまけにその存在が、ちょっと間抜けで、ちょっと怖くて、でもどこか可愛らしいときたら、もう語らずにはいられない。

河童とは、まさに“日本人の想像力が生んだ、理想のいたずらっ子🩷”なのだ。

しかも、全国にはその名のバリエーションも豊富にある。

かわたろう、がたろ、すいぼう、えんこう…もう河童界も個性爆発である。

どこかの河童たちはきゅうりではなく、ナスを好むらしい。

河童界のグルメ事情も奥が深い。

そんな河童たちが、今日もどこかの川辺で、いたずらのタイミングをうかがっているかもしれない。

水の流れる音に耳をすませば、ふいに、ぬるりとあの子がやってくる。

お皿の水がこぼれないように、静かにそっと、ね。

第2章…いたずらは川からやってくる!かっぱ界の迷惑伝説


昔々、村の川辺で「またアイツか!」とため息がもれるたび、登場するのは決まって一匹の河童である。

「いたずらが趣味?」「違う、仕事だ」とでも言いかねないその顔つき。

馬の尻にしがみつくわ、洗濯物を持ち去るわ、村娘の足をくすぐるわ、やりたい放題である。

いや、正確には“やりたくてたまらない”のだろう。

なにしろ、河童界には“退屈”という言葉が存在しないらしい。

とある村では、いつも水を汲みに来る娘の桶に、そっとカエルを忍ばせるという手の込んだ仕掛けを楽しんでいた河童がいた。

その娘が悲鳴を上げた瞬間、川からぴゅるっと顔を出してクスクス笑う河童。

しかし笑いすぎて自分が滑って水に落ちてしまい、結局尻を打って涙目になるという自業自得。

いたずら好きというのは、ときに自分にもブーメランのように返ってくるのである。

また別の村では、河童が人の味噌を勝手に味見して怒られたという話もある。

村人に見つかってしまったときのあの気まずさといったら、そりゃあもう皿の水も干上がるというもの。

けれども不思議なことに、そんなふうに何度も迷惑をかけられても、村人たちは河童を“完全に悪者”にはしないのだ。

どこか憎めない、叱りきれない、つい笑ってしまう…。

そんな不思議な存在感を放つのが、河童という生きもの。

もちろん、時に「怖い話」もある。

しりこだまを抜かれて命を落とした、という言い伝えもあるし、水難事故の裏には河童の影がある、などと恐れられることもある。

でもそれすらも、現代の目で見れば「川遊びの注意喚起」として、しっかり役割を果たしているのだから、河童はやっぱり“ただの妖怪”では済まされない、教訓のかたまりみたいな存在なのだ。

笑ってるうちに、気づけばちょっと背筋が寒くなる。

だけど、その後にじんわり湧いてくるのは、「なんか、かわいいなぁ」という気持ち。

それが河童である。

いたずら、ちょっと怖い、でも愛される。

この三拍子、完璧すぎてズルいじゃないか🩷。

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第3章…唐辛子はおしりで学ぶ人生のスパイス


昔々、ある村に、何かと馬の尻が気になって仕方ない河童がいた。

川にやってきた馬の後ろに、ぴとっ。

まるで吸い寄せられるように、くっついてくる。

その理由は諸説ある。

しりこだまを狙っていたのか、ただの趣味だったのか、それとも、ただただモフモフした尻尾が羨ましかったのか――真相は、いまだ河童のみぞ知る。

だがある日、そんな河童の人生(いや、河童生)を変える事件が起きる。

いつものように馬の後ろに忍び寄り、よし、今日もいただき…と飛びついた瞬間。

「ぬ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーっ!!!」

川に轟く、河童の絶叫。

馬のお尻にはなんと、たっぷりと唐辛子が塗られていたのである。

油断した河童は、ピタッとくっついたそのお腹全体が大火事のようにヒリヒリして、川に飛び込み、涙目でぷかぷかと流されていった。

そして数日後――その男の家に、包帯ぐるぐるの河童がやってくる。

「このたびは、たいへん失礼をいたしました…。お詫びに、川で獲れたお魚と薬草をどうぞ…」

ぺこりと深々頭を下げる河童。

…ん? お皿の水、大丈夫? こぼれてない?

なんとも律儀な態度に、男は思わず笑ってしまった。

それからというもの、河童は村人にいたずらをすることもなく、むしろ川の様子を見守ったり、子どもたちに水遊びの危険を知らせたりと、すっかり“川の守り神”のような存在になったとか。

…という、しりこだま級の転機を迎えた河童の昔話。

教訓は簡単、「悪さをすれば、いつかヒリヒリのお返しがくる」。

でも同時に、「謝って、心を込めれば、人はまた信じてくれる🩷」。

そう、人生はお腹で学んで、で終わるのだ。

やらかして、泣いて、詫びて、仲直り。

そんな風に成長できるなら、河童だって、なかなかいいやつじゃないか。

第4章…葉っぱが河童に化ける夜に文豪たちは夢を見た


8月8日――この日を「末広がりの八が二つ」と見るか、「葉っぱ(はっぱ)がふたつ」と読むかは人それぞれ。

けれども、福岡県久留米市・田主丸の人々にとっては、ずっと昔から「かっぱ」の日なのである。

毎年この日になると、田主丸の町に河童たちがわらわらと現れ、河童神社には夏の大祭「河童祭り」が開催される。

その姿は、もはやただの妖怪どころか、ご近所の人気者、いや町のスターと言っても差し支えない。

この「河童の町・田主丸」を語るうえで外せないのが、一人の文豪の存在だ。

その名は火野葦平(ひの あしへい)。

昭和の芥川賞作家として名を馳せた彼は、実は河童をこよなく愛した人物でもあった。

その証拠に、彼の作品には『河童昇天』『河童』『河童ものがたり』『河童会議』など、タイトルに河童がつくものだけでも何十点。小説に随筆、童話にエッセイ、とにかく出るわ出るわ、河童のオンパレード。

読者が「またか」と思う暇もなく、彼は真顔で河童を語り続けたのである。

葦平は言う。

「河童が、私の文学の支柱であることに、なんの疑いもない」。

…もはや文学というより、もはや恋である。

そんな火野葦平が影響を受けたのが、かの有名な芥川龍之介。

彼もまた、短編小説『河童』を通じて、社会を鋭く風刺しながら、ユーモアと皮肉を交えた“河童世界”を描いた人物🩷。

7月24日は龍之介の命日ということで、「河童忌」と呼ばれ、文学ファンの間では静かな祈りの日となっている。

――そう、河童はただの昔話の住人ではない。

日本文学の中で、時に哲学者の顔をし、時にいたずら小僧のまま舞台を走り回る、そんな自由で不思議で、ちょっぴりセンチメンタルな存在なのである。

そして、夏。

風鈴の音に混じって聞こえてくるのは、河童たちの足音かもしれない。

8月8日の夜、田主丸の川沿いに灯る提灯のひとつひとつに、火野葦平の夢と、芥川龍之介の影と、そして河童たちのくすくす笑いが、そっと揺れている。

第5章…スマホ片手にぬるり登場!?令和のかっぱは多忙です


昔の河童は、もっぱら川遊びといたずらに命を燃やしていたが、時は令和。

もし今、あのぬるりとした存在が本気で現代に適応してきたらどうなるのか。

その姿をちょっと想像してみるだけで、もう…笑わずにはいられない。

まず、間違いなくスマホは持っている。

しかも防水仕様で、常にライブ配信中。

アカウント名はたぶん「@ぬるぬる河童公式」。

タイムラインには、「本日のおしり狙い!」「川の流れに身をまかせてみた」など、ゆるすぎる動画タイトルが並び、フォロワー数は伸び悩むも、なぜか熱狂的な固定ファンがついている。

YouTubeチャンネルを開けば、「深夜の田主丸で皿だけ光るドッキリ」「しりこだまは実在するのか?3日断食検証」

そんな攻めすぎたコンテンツを展開し、コメント欄は「草」「それな」「誰が見てんのこれ」で埋まっていく。

それでも河童はめげない。

なぜなら、常に推しは自分自身だからだ。

しかも近ごろでは、自治体とのコラボにも引っ張りだこ。

「水害を防ぐ見守りAIプロジェクト」にもなぜか河童が公式キャラで採用され、“川の妖怪”から“川の安全ナビゲーター”へとキャリアアップしているというウワサ。

児童館では「河童先生の水辺の授業」が開講され、子どもたちからは大人気。

「ねえ先生、しりこだまってほんとにあるの?」

「あると思うから大事にできるんだよ」

…そんな名言まで飛び出す始末である。

気づけば、あのいたずらっ子が、ドローンで川の見回りをし、河川の水位アラートを発信し、SNSでマナー啓発を行う――

なんだか頼もしい存在に変わっているではないか。

でも安心してほしい。

夜の川辺で、ぽちゃんと水音がしたなら、それはきっと今もぬるりと潜んでいる証拠🩷。

きゅうり片手にスマホをのぞきながら、あなたのリアクションを待っている。

いいね!が欲しいのか、しりこだまが欲しいのか――その真意は、永遠の謎のまま。


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まとめ…河童はきょうも川のほとりで夢を見ている


皿を乾かさぬように、背筋をしゃんと伸ばしながら。

好奇心にまかせて、馬のお尻に飛びついたり。

泣いて、笑って、詫びて、魚を贈って帰っていったり。

時には本に登場し、時には夏祭りで提灯の影を揺らし、そして今では、スマホ片手に川の安全を見守っているかもしれない。

河童は、昔話の中だけに閉じ込めておくには、もったいない存在だ。

それはきっと、誰の中にもある「ちょっとズルいけど、ほんとは優しい」気持ちの化身。

見つけたときには困った顔をしながら、心のどこかでつい笑ってしまうような、

そんな不思議な“川のともだち”。

8月8日、「河童の日」に思いを寄せてみよう。

田主丸の町で賑やかな河童たちが舞い踊るその夜、

あなたの近くの川辺にも、ひとり、ぬるりと現れるかもしれない。

光る皿、ゆらぐ水面、そしてくすっと響く笑い声。

「やれやれ、またやらかしたかい?」

そんな風に笑いながら、ふと自分の中の小さな河童に気づいたとき、それはきっと、ちょっぴり優しくなれるサインなのかもしれない。

そして高齢者施設やデイサービスで描く絵。

まれに空想のまま自由に描いてみてはどう?

きっとその人だけの自由が手に入れられるかもしれませんね。

今日はかっぱをモチーフにしてみたら?🩷

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お気づきのご感想を是非、お気軽にお寄せくださいましたら幸いです。


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