耳かきは誰の手に渡る?~左右の違いと介護が繋ぐ耳の記憶~
はじめに…耳は2つあるけれど同じじゃない~小さな穴から始まる一生の物語~
耳は右と左に1つずつ。鏡で眺めれば似たような形に見えますが、自分で耳かきをしてみると「あれ?」と思うことがあります。右耳ではすんなり届く場所が、左耳では妙に角度を変えたくなる。利き手や肩の動かし方も違えば、長年の姿勢や噛み方、寝る向きなど、体には少しずつ左右それぞれの履歴が積み重なっています。人の体は十人十色、左右一対だからといって、全く同じ扱いで良いとは限りません。
そして耳かきには、もう1つ不思議な顔があります。幼い頃には親に耳を見てもらい、いつしか自分でするようになり、夫婦なら「ちょっと見て」と耳を預ける日もあるでしょう。年を重ねれば、今度は子どもに頼むことがあるかもしれません。耳の中まで知っている人がいるというのは、考えてみれば随分と親密なことですが、それも夫婦の醍醐味。
ところが、加齢と共に自分の手が届きにくくなり、その大切な人も傍にいなくなったら?耳は誰が見てくれるのでしょう。高齢になるほど「最近、聞こえにくい気がする」という小さな変化は暮らしの安心にも繋がります。家族が面会した時にも、顔や髪と同じくらい耳の様子はふと目に入るものです。
耳かきは耳垢を取るだけの道具ではなく、「あなたの体をちゃんと見ていますよ」と伝える小さな手仕事なのかもしれません。介護を受けるようになっても、家族と同じ関係をそのまま取り戻すことはできません。それでも誰かが右耳と左耳をきちんと見分け、その人なりの耳を知ろうとしてくれる。そこには、失ったものとは別の新しい安心が育つ余地があります。
[広告]第1章…耳かきは何歳から?~右耳と左耳で違う感覚と身体の履歴~
「耳かきって、何歳から始めるものなんだろう?」と考えると、意外に答えに困ります。赤ちゃんの耳は親が気にして、幼い頃も大人が様子を見ます。それがいつの間にか自分の仕事になり、気がつけばお風呂上がりに耳かきを手にしている。誰かから「今日から自分でやりなさい」と卒業証書を渡された覚えはないのに、耳の管理はいつの間にか本人へ引き継がれています。
尤も、耳垢は何でも取れば良いものではありません。外耳道(耳の入口から鼓膜まで続く通り道)には、耳垢を少しずつ外へ運ぶ自浄作用があります。奥まで耳かきを入れてゴシゴシ掃除すると、却って耳垢を押し込んだり、薄い皮膚を傷つけたりすることがあります。清潔第一と張り切った結果、耳が「そこまで頼んでませんけど?」と抗議してくるのでは困ります。何事も過ぎれば及ばざるが如し。耳にもほど良い距離感が必要です。
けれど、自分の耳へそっと耳かきを当ててみると、もう1つ面白いことに気づきます。右耳と左耳では、入れやすい角度も触れた時の感覚も、どこか違うのです。ただし、この違いを全て耳の形だけのせいにすることも出来ません。右手と左手では器用さも力加減も違い、肩や肘の動かし方も変わります。利き手で右耳を触る時と、反対側へ腕を回す時では、同じ一本の耳かきでも動き方は別物です。
それでも、人間の体そのものが左右完全対称ではないことは、鏡を見れば何となく分かります。顔の輪郭、肩の高さ、噛みやすい側、足を組む方向、寝返りを打った後に落ち着く向き。長い暮らしの中には、左右それぞれに癖が積み上がります。50代、60代と年齢を重ねれば、歯並びや噛み合わせ、姿勢の違いなどから「若い頃より左右差が分かるようになった」と感じる人もいるでしょう。
赤ちゃんの頃なら、なおさら体は成長途中です。いつも同じ方向を向いて眠っていると、「たまには反対も向いてみようか」と、そっと頭の向きを変えた経験のある親御さんも少なくないはずです。もちろん安全な寝かせ方を守ることが大前提ですが、子育てをしていると、体というものが想像以上に環境の影響を受けながら育っていくことを実感します。
そう考えると、耳だけを「左右に同じ物が一個ずつ付いている」と扱う方が不思議です。耳介の形も外耳道の向きも、人それぞれ。さらに、その人自身の手の動かし方や暮らし方まで重なります。右耳で心地良かった角度を、そのまま左耳へコピーすれば良いというほど単純ではありません。一期一会という言葉は少し大き過ぎるかもしれませんが、耳との付き合いも毎回まったく同じ条件ではないのです。
右耳には右耳の、左耳には左耳の「ちょうど良い」がある。その小さな違いに気づくところから、丁寧な耳のケアは始まります。
そして自分で耳かきをしているうちは、「今日はこっちが触りにくいな」で済みます。では、自分の手では難しくなった時、その左右の違いを誰が見つけてくれるのでしょう。耳という小さな場所は、やがて「自分の体を誰かに預ける」という、もっと大きな暮らしの話へ繋がっていきます。
第2章…耳の中まで知っている人がいる幸せ~親から夫婦そして子へ~
子どもの頃、誰かの膝に頭を乗せて耳を見てもらった記憶がある人もいるでしょう。「動いたら危ないよ」と言われながら、じっとしているつもりなのに、くすぐったくて肩がピクッ。すると「動かないの」と注意される。いや、動かそうと思って動いたわけではないのですが……耳の中には本人にも制御できないスイッチがあるようです。
幼い子の耳を気にするのは、母かもしれませんし、父かもしれません。耳かきで奥まで掃除する必要はありませんが、耳の入口を見たり、いつもと様子が違わないか確かめたりする行為には、清潔を保つ以上の意味があります。「この子の右耳は少し見えにくいな」「左は触るとすぐ笑うな」。そんな小さな特徴を、本人より先に親が知っている時期があります。
やがて子どもは成長し、耳の手入れも自分でするようになります。親子の間で「もう自分で出来るから」と言う日はあっても、耳かき卒業式が開かれるわけではありません。気がつけば親の手から自分の手へ。こうした自然な世代交代もまた、日々是好日と呼びたくなる暮らしの一場面です。
ところが大人になると、不思議なことが起こります。自分でできるようになったはずなのに、親しい相手には再び耳を預けることがあります。妻に「ちょっと右耳見てくれない?」と頼んだり、夫の耳を覗いて「これは自分で無理じゃない?」と笑ったりする。恋愛映画ではまず主役にならない場面ですけど、現実の夫婦生活はこういう妙に細かいところでも出来ています。
考えてみれば、耳の中まで知っている相手というのは、かなり特別です。職場の同僚が自分の好きなコーヒーを知っていても、右耳の窪みまでは知りません。友人が性格を熟知していても、「左耳はこの辺を触るとくすぐったい」までは普通は知らないでしょう。そこまで身体を任せられる関係には、長い時間の中で育った以心伝心があります。
耳かきをする側にも、ただ汚れを取る以上の仕事があります。右と左を見比べ、痛くないかを聞き、少し動けば手を止める。相手が「そこ、そこ」と言えば力を弱め、「もう良いよ」と言えば終わる。自分の耳を自分で触る時には主観的な感覚が頼りですが、誰かに見てもらえば、そこへもう1つの目が加わります。
耳の中まで知っている人がいるというのは、自分でも見えない身体の一部を安心して預けられる、とても小さくて深い幸せなのかもしれません。
そして人生は、もう一度向きを変えます。親にしてもらっていた子どもが大人になり、やがて年老いた親から「ちょっと耳を見てくれないか?」と頼まれる日が来るかもしれません。昔は耳かきを握っていた父の手が上がりにくくなり、細かな動作が得意だった母の指先が思うように動かなくなる。その時、耳かきは親から子へ戻ってきます。
「ちょっと、じっとしてよ」と子どもが言い、「お前が小さい頃はもっと動いたぞ」と親が返す。そこで立場が入れ替わったことに気づいて、少し笑う。耳かき1本に、親子の何十年がギュっと詰まる瞬間です。
こうした身体の記憶は、家族だから自動的に生まれるものでもありません。一緒に過ごし、触れ、失敗し、「これは嫌」「こっちは大丈夫」と知りながら少しずつ積み上げていくものです。その積み重ねがあるからこそ、誰かに身体を任せることが怖さではなく安心になるのでしょう。
けれど、その「自分の耳を知っている人」が、ずっと隣にいてくれるとは限りません。親との別れ、夫婦の別れ、子どもとの距離、そして自分自身の老い。耳かきというささやかな習慣にも、いつか途切れる日がやってきます。その時に失うのは、耳を掃除してくれる手だけなのでしょうか?もっと大きな何かまで、一緒に失ってしまうのかもしれません。
[広告]第3章…その手がいなくなる日~自分の耳を知る人を失うということ~
長く一緒に暮らしていると、人は相手のことを驚くほど細かく覚えています。朝はどちら側から声を掛けた方が機嫌が良いのか、熱いお茶は少し冷ましてから渡した方が良いのか、肩を揉むなら右からなのか左からなのか。そんな情報はノートに書かれているわけでもなく、毎日の暮らしの中に静かに積もっていきます。
耳も同じです。妻なら夫の右耳を見て「ああ、今日は少し溜まってるね」と気づくかもしれません。夫なら妻が耳を触られる時に少し肩をすくめることを知っているかもしれない。親なら子どもの頃からの癖を知り、成長した子どもなら年老いた親が「左から話してくれた方が聞きやすい」と言うことを覚えている。こうした阿吽の呼吸は、何十年もの時間が少しずつ作ったものです。
ところが、その相手がいなくなる日は突然やってきます。親との別れ、伴侶との死別、子どもとの離別。あるいは誰かが亡くならなくても、自分の体が思うように動かなくなり、これまで自分で出来ていた耳の手入れを誰かに頼まなければならなくなることがあります。
失うのは「耳かきをしてくれる人」だけではありません。その人しか知らなかった自分の身体の取扱説明書まで、一緒に消えてしまうような感覚が残ることがあります。財産なら一覧表を作れます。家や通帳なら引き継ぐことも出来るでしょう。ところが「右耳はこの角度が苦手」「左耳は昔から少し聞こえにくい」「ここを触るとくすぐったい」といった身体の記憶には、相続手続きがありません。
それだけに喪失感は深くなります。長年一緒だった人を失えば、冠婚葬祭の場が終わっても暮らしは続きます。朝ご飯を食べ、服を着て、お風呂に入り、耳も気になる。その何気ない瞬間に「あの人なら見てくれたのに…」と気づくことがあります。日常茶飯の小さな行為ほど、いなくなった人の存在を思い出させるのかもしれません。
そして介護を受ける暮らしが始まると、介護士さんや看護師さんが身体を支えてくれるようになります。食事、排泄、入浴、移動、着替えや整容。自分だけでは難しくなったことを誰かが助けてくれるのは、大きな安心です。
けれど、そこには家族とは違う現実があります。
昨日はAさん、今日はBさん、明日はCさん。勤務は交代します。休みもありますし、異動もあります。介護職員がどれほど丁寧でも、幼い頃からその人の耳を見てきたわけではありません。何十年も積み上げられた「いつもの右耳」「いつもの左耳」を、入所したその日から知ることなど出来ないのです。
これは介護職員の愛情が足りないという話ではありません。家族と専門職では、関係が始まった場所も積み重ねてきた時間も違います。家族だから出来たことを、そのまま仕事へ移し替えることは出来ません。
家族が担っていた耳かきが、施設では「整容」「清潔保持」「観察」といった業務の中へ入っていく。そこにはどうしても少し寂しい響きがあります。かつて「ちょっとこっち向いて」と言ってくれた人の手と、決められた時間の中でケアする職員の手は、同じにはなりません。
大切な人を失った時に消えるのは、その人の姿だけではなく、自分を長く知ってくれていた「記憶の持ち主」でもあります。
それでも、そこで物語が終わるわけではありません。
介護を受けるようになったからこそ、初めて出会った誰かが「右と左で少し違いますね」と気づいてくれることもあります。「左は触られるのが苦手なんですね」「右から声を掛けた方が聞こえますね」と、少しずつその人の特徴を覚えてくれる人が現れるかもしれません。
昔の家族と同じ関係には戻れません。それでも新しい人との間に、新しい身体の記憶を積み上げることは出来ます。その小さな積み重ねが、失ったものを埋めるのではなく、これからの暮らしに別の安心を置いてくれる。次に必要なのは、家族の代役を探すことではなく、介護の中に新しい「いつもの」を育てることなのだと思います。
第4章…完全には戻せなくても~介護が育てる新しい「いつもの耳」~
家族が何十年もかけて覚えてきた「この人の耳」を、施設へ入ったその日に再現することは出来ません。右耳はこの角度が苦手、左耳は少しくすぐったがる、最近は右側から話しかけた方が聞き取りやすそう――そんな細かな身体の記憶は、契約書にも荷物の一覧にも入っていないからです。けれど、分からないなら、そこから知っていけば良い。完全な引き継ぎができなくても、新しい時間を積み重ねることは出来ます。
介護現場では、食事、排泄、入浴、移動、着替えや整容といった基本的な介助を安全に回すだけでも大仕事です。それでも五大介護だけを最低限こなして1日を終える暮らしと、その人の細かな変化まで目が届く暮らしでは、半年後に少しずつ差が表れます。顔は毎日見ている。髪も整えている。入浴もしている。それなのに、耳介(頭の外に出ている耳の部分)の細かな溝に汚れが残り続けているとしたら、「耳くらい」で終わらせず、他にも見落としている場所はないだろうかと考えるキッカケになります。
耳は、その確認に向いている場所でもあります。右と左を見比べれば形も違い、汚れが溜まりやすい場所も同じとは限りません。昨日と今日で赤みが違うこともあれば、触れられた時の表情が違うこともあります。「左右とも同じように3回拭いて終了」ではなく、その日の耳をその日の目で見る。こうした臨機応変こそ、人を相手にする介護の細やかさです。
ただし、丁寧なケアと「耳垢を全部取ること」は別物です。見えている耳介を清潔に保つこと、耳の入口付近を観察すること、本人が聞こえにくさや痛みを訴えていないか気づくことは大切ですが、耳かきを奥まで入れて取り切ろうとするのは話が違います。外耳道(耳の入口から鼓膜まで続く通り道)は傷つきやすい場所です。奥に耳垢が詰まっているように見える、痛みや耳垂がある、急に聞こえにくくなったといった時には、施設内の看護職や医療機関へ繋ぐ判断が必要になります。腕前を競う耳かき大会ではありませんので、そこは慎重第一です。
そして、高齢者にとって「聞こえるかどうか?」は、単にテレビの音量の問題ではありません。朝の挨拶が聞こえる、食事の声掛けが分かる、家族との会話に入れる、自分の希望を伝えられる。耳の状態は、人と人との間にある会話の入口でもあります。面会に来た家族が「最近、随分と聞こえにくそうだな」「耳が汚れているけど大丈夫かな?」と感じれば、気になるのは耳だけではありません。「普段ちゃんと見てもらえているのかな?」という不安まで一緒に顔を出します。
だから施設で育てたいのは、「耳掃除を実施した」という一回限りの記録より、「この人のいつもの耳を知っている」という連続性です。右は触られると少し身を引く、左はこの辺りに汚れが残りやすい、最近は聞き返しが増えた。気づいた職員だけの記憶にせず、必要な情報を申し送りや日々のケアへ繋いでいけば、勤務する人が替わっても理解は少しずつ積み上がっていきます。
家族の愛情を施設が完全再現することは出来ませんし、する必要もありません。母の手、父の手、妻や夫の手、子どもの手には、それぞれにしか持てない歴史があります。それを職業としての介護が同じものに置き換えようとすれば、どこか無理が生まれます。
それでも、自分では守りにくくなった右耳と左耳を、誰かが別々に見て「今日はいつも通りですね」と覚えてくれることは、新しい安心の始まりになります。
かつて家族に耳を預けていた幸福と、介護を受けながら誰かに助けてもらう安心は、同じものではありません。それでも後者を妥協と呼ぶだけでは少し寂しいでしょう。失った時間は戻らなくても、これから出会う人との間には、新しい「いつもの」が作れます。耳かき一本ほどの小さな入口からでも、介護はその人の暮らしを知っていける。そんな積み重ねが五大介護のその先にある、血の通った日常なのだと思います。
[広告]まとめ…耳かきは小さな救い~誰かに身体を預けられる暮らしへ~
耳は左右に1つずつで2つあります。見た目には似ていても、自分で触れば感覚が違い、手を動かす角度も力加減も変わります。長年の姿勢や暮らし方、身体の変化まで重なれば、右耳には右耳、左耳には左耳との付き合い方が生まれていきます。十人十色という言葉は、人の性格だけでなく、こんな小さな身体の場所にも似合うのかもしれません。
そして耳かきには、清潔を保つ道具という顔だけではなく、人と人との距離を映す不思議な顔があります。幼い頃には親に見てもらい、大人になれば夫や妻に頼み、年を重ねれば子どもに耳を預けることもあるでしょう。「そこ痛い」「もう少し右」「今日は良いよ」。そんな何気ないやり取りの中で、相手は少しずつ自分の身体を覚えていきます。
耳の中まで知ってくれている人がいる。それは普段、わざわざ幸福として数えることのない幸せです。失ってから初めて「あの人は私のことを随分と細かく知っていたんだな」と気づくものもあります。人との別れには、思い出だけでなく、その人が持っていた自分自身の記憶まで一緒に失う寂しさがあります。
介護が必要になった時、家族が積み重ねた何十年もの時間を介護士さんや看護師さんがそのまま受け継ぐことは出来ません。仕事には勤務交代があり、担当も変わります。家族の手と専門職の手を同じものにすることも出来ないでしょう。
それでも、そこから始めることはできます。
右耳と左耳を別々に見る。触れた時の表情を覚える。聞こえ方の変化に気づく。無理に耳かきを進めず、必要なら看護職や医療へ繋ぐ。そして次に関わる人へ「この方はこうですよ」と渡していく。そんな相互扶助が続けば、知らなかった耳が少しずつ「いつもの耳」になっていきます。
家族の愛情を完全に取り戻すことは出来なくても、自分では守れなくなった身体を誰かが知ろうとしてくれることは、それだけで1つの救いになります。
介護の質は、大きな設備や立派な言葉だけに現れるものではないのでしょう。食事や排泄、入浴といった欠かせない介助の先で、顔の横にある小さな耳にも目が届く。右と左の違いを見て、その人なりの心地良さを探す。そんな小さな手間の積み重ねに、「あなたを1人の人として見ています」という気持ちが滲みます。
耳かき1本から始まる話は、最後には誰かに身体を預けられる暮らしへ繋がります。自分で出来るうちは自分の耳を大切にし、誰かに頼める時にはその時間も大切にする。そしていつか助けてもらう側になった時にも、新しい誰かと「いつもの」を育てていけば良い。耳は小さいけれど、そこに残る人のぬくもりは、なかなか小さくありません。
[ 広告 ]今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
[ 応援リンク ]
ブログランキング2つに参加しています。応援クリックをお待ちしております。
[ ゲーム ] 作者のitch.io(作品一覧)
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。