サケは空を飛びたいわけじゃない~魚の大砲・秋鮭・熊の木彫りで見る人の都合と川の再出発~
目次
はじめに…サケの大砲と聞いて川辺の発射台を想像してしまった
「サケの大砲があります」と聞けば、川岸に巨大な発射台が置かれ、銀色のサケが秋空へドーンと飛び出す姿を想像してしまいます。いやいや、魚を撃ってどうする。帰りたいのは上流であって、宇宙ではありません。
実際の姿は、火薬を使う大砲とはまるで違います。サケをやわらかな筒へ迎え入れ、水分を保ちながら上流側へシュッと運ぶ装置です。初めて映像を見れば、半信半疑のまま「サケ、思ったより速いな」と妙な感心までしてしまいそうです。
けれど、この愉快な装置が生まれた背景には、少し複雑な事情があります。人間が暮らしを便利にするため、川にダムや堰を築いたことで、産卵場所へ帰るサケの道が途切れてしまったのです。そこで魚道(魚が段差や人工物を越えて移動するための通り道)を造り、階段を設け、エレベーターまで用意し、ついには長い筒で運ぶ方法へ辿り着きました。正に試行錯誤です。
通れなくなったサケに必要だったのは、さらなる根性ではなく、帰れる道でした。
秋鮭やいくらが食卓をにぎわせ、熊がサケをくわえた木彫りまでお馴染みになった日本。その華やかな秋の景色の奥には、命が川を上る長い旅と、人間が造った壁があります。それでも壁を造った手で、新しい道を造ることは出来ます。
サケの不思議な空中旅行を追いながら、人間の身勝手さだけでなく、気づいた後に何が出来るのかを、明るく覗いてみましょう。
[広告]第1章…シュポッと上流へ!~魚の大砲・階段・エレベーターの正体~
長い海の旅を終えたサケが、生まれ故郷の川を遡ってきます。ところが目の前には、人間が築いた大きなダム。右を見ても壁、左を見ても壁です。
「いや、帰宅途中なんですけど」
サケがそう言いたくなっても無理はありません。そこで用意されるのが、魚道(魚がダムや堰などの障害物を越えるための通り道)です。人間の道にも坂道や階段があるように、魚の世界にも通り方の違う道があります。
まずは、魚の階段とも呼ばれる魚道です。小さな段差と水の溜まりを連続させ、魚が少し上っては休み、また少し上る仕組みになっています。サケが一直線に滝を駆け上がる根性大会ではありません。途中に休憩所を置き、少しずつ高い場所へ進めるようにした水の階段です。米国のダムにも、発電施設や航路と並んで魚の階段が設けられています。
ただし、魚の種類や体の大きさ、水量、流れの速さは千差万別です。階段を作れば全員が「はい、了解」と利用してくれるほど、魚も素直ではありません。入口を見つけられなかったり、流れが速過ぎて疲れたりすることもあります。立派な階段なのに利用者が来ない。人間の施設でも少し耳の痛い話です。
階段では越えにくい場所では、魚のエレベーターが登場します。魚を水の入った設備へ誘導し、一定数が集まったところで上流側へ持ち上げます。サケ自身がボタンを押して「上流階です」と告げるわけではありません。乗車券も案内放送もありませんが、目的地へ運ぶ役目は立派に果たします。
そして、見た目の衝撃で話題をさらうのが、通称「サケの大砲」です。
大砲と聞くと、川岸からサケがドーンと放物線を描きそうですが、実際は細長い搬送チューブです。魚は保護用の筒へ入り、差圧(空気の圧力差)を利用して上流側へ運ばれます。現在の自動化された装置では、筒の中を霧で湿らせ、やわらかな空気のクッションで魚を守りながら、ダムの高さに左右されず通過させる仕組みが使われています。
音にするなら「ドカーン」ではなく、「シュポッ、スーッ、ぽちゃん」。大砲というより、魚専用の長い送迎トンネルでしょう。入口へ入ったサケが数秒後には上流側へ現れる姿は、少し不思議で、かなり未来的です。
魚に根性を求めるのではなく、その魚が通れる方法を試行錯誤するところに、人間の知恵があります。
階段が合う魚には階段を、持ち上げた方がよい場所にはエレベーターを、長い壁を越えるならチューブを使う。万能な一本道を押しつけず、適材適所で帰り道を整える発想です。
もっとも、その壁を造ったのも人間です。拍手だけしている場合ではありませんが、間違いに気づいた後、知恵を絞って道を繋ぎ直すことも出来ます。サケは今日も、少々ややこしくなった故郷への道を、黙々と進んでいます。
第2章…川を塞いだのは誰だ?~便利さの後ろで帰り道を失ったサケ~
川を横切るダムや堰には、洪水を抑え、水を蓄え、農業や発電を支える役目があります。町の蛇口から水が出て、夜に明かりがともる。その暮らしを「全部やめよう」と言えば、話は急に乱暴になります。
人間の暮らしにとって頼もしい設備も、海から川へ戻るサケの目には巨大な壁です。こちら側から見れば立派なインフラ、サケ側から見れば故郷の玄関前に突然現れたシャッター。しかも呼び鈴がありません。
サケは、海で大きく育った後、生まれた川へ戻って産卵します。ところが河川連続性(川の上流と下流を生き物が行き来できる繋がり)が途切れると、帰りたい場所まで辿り着けません。
「今年も帰省しよう」と泳いできたら、道路が混んでいるどころか、道路そのものが消えていた。これはなかなかの本末転倒です。
ダムや堰が変えるのは、通り道だけではありません。水の流れ方、川底の砂や石、水温、餌になる生き物の環境にも影響が及ぶことがあります。サケ1匹の進路変更で済まず、川全体の暮らしが組み替わっていくのです。
人間には人間の事情があり、自然には自然の都合があります。どちらかを悪者にして拍手喝采とはいきません。便利な暮らしにも一長一短があり、その短所が見えにくい場所へ押し出されていないか、時々立ち止まる必要があります。
便利さの代金を、声を上げられない生き物だけに払わせてはいけません。
人間の身勝手さは、壁を造ったことだけに表れるのではないでしょう。壁の向こうで困っている命に気づきながら、「自然のことだから仕方ない」と目をそらす時にも顔を出します。
とはいえ、人間には少し頼もしいところもあります。川を完全に昔の姿へ戻せない場合でも、魚道を造る、水量や流れを調整する、産卵できる場所を守るなど、傷んだ繋がりを結び直そうとすることはできます。
急がば回れ。便利さを急いで積み上げるより、魚も人も長く暮らせる道を残した方が、遠回りに見えて未来への近道になります。
サケからすれば、「最初から通してくれれば早かったんですけど」と言いたいところでしょう。ごもっともです。それでも、間違いに気づいた人間が工具箱を持って川へ戻ってきたなら、帰り道を直す物語はそこから始められます。
[広告]第3章…秋鮭といくらと熊の食卓~命をいただく季節の舞台裏~
秋の魚売り場には、銀色の切り身と赤く光るいくらが並びます。焼き網から脂の香りが立てば、ご飯は予定より少し多め。いくらを見れば、「今日は景気よく盛ろう」と思った直後に値札を見て、静かに小さなスプーンへ持ち替える。秋の味覚にも家計会議はついてきます。
秋鮭は、産卵のために海から川へ帰ってくるサケです。海で過ごした長い年月を背負い、流れに逆らいながら生まれた場所を目指します。北海道の千歳川では、例年、夏の終わりから冬の入口にかけて遡上するサケの姿が見られます。川へ戻ったサケにとって、この旅の目的は観光でも里帰り自慢でもありません。次の命を残すための、全身全霊の帰還です。
雌のお腹に育った卵は、筋子として取り出され、粒をほぐして味を付けると、私たちに馴染み深いいくらになります。食卓では宝石のように輝きますが、その一粒一粒は、本来なら川底で新しい命になるはずだったものです。
そう考えると、箸が止まりそうになります。けれど、食べること自体を後ろめたく思う必要はありません。大切なのは、命の背景を知った上で、残さず、美味しく、丁寧にいただくことです。
秋のご馳走は、季節から届く商品ではなく、海と川を旅した命からの贈り物です。
川辺では、サケを待っているのは人間だけではありません。ヒグマにとっても、遡上するサケは冬を越す体を作る大切な食べ物です。川で捕らえたサケが森へ運ばれ、食べ残された体や排泄物に含まれる栄養が土へ渡ることで、海の恵みが森を育てる循環にも繋がります。弱肉強食という言葉だけでは片づけられない、山と海の共同配送です。送り状はありませんが、届け先は森でした。
そこで思い浮かぶのが、北海道土産でお馴染みの、サケをくわえた熊の木彫りです。
熊は堂々、サケは絶体絶命。玄関や床の間で何十年も、その瞬間のまま止まっています。「そろそろ離してあげて」と言いたくなりますが、サケをくわえた姿は木彫り熊の代表的な印象として親しまれてきました。八雲町には木彫り熊の資料館があり、サケをくわえた姿だけではない、多彩な熊の造形も伝えられています。
木彫りの熊を、熊がサケを奪った場面だけで見ると、少し荒々しい置物です。けれど、海で育ったサケが川へ戻り、熊の命を支え、その一部が森へ渡る景色まで重ねると、見え方が変わります。
秋鮭もいくらも、山海珍味として突然お皿に現れたわけではありません。川を上るサケ、待ち受ける熊、漁をする人、加工する人、店へ運ぶ人。その長いリレーの最後で、私たちは箸を持っています。
「高いなあ」と値札に驚く日にも、その向こうにある手間と命を少し想像できれば、ひと口の味わいは深くなります。たっぷり盛れない夜でも大丈夫。小さなひと匙を家族で分ければ、秋の食卓には十分な物語が残ります。
第4章…通れないなら道を作ろう~魚道から学ぶ暮らしのバリアフリー~
サケの前に大きな壁が現れた時、人間は「もう少し勢いをつけて跳んでください」と応援するだけでは済ませませんでした。水の階段を造り、エレベーターを用意し、長いチューブまで設置しました。
そこまでできるなら、人の暮らしでも同じ発想を使えます。
玄関の段差を越えられない人に、「足を高く上げて」と何度も頼む。小さな文字が読みにくい人に、「よく見て」と紙を近づける。言葉を聞き取りにくい人に、同じ速さのまま声量だけを上げる。
本人は既に努力しているかもしれません。そこへ根性を追加しても、玄関は低くならず、文字も大きくなりません。声だけが大きくなれば、会話が少しした雷雨になることもあります。
バリアフリー(暮らしを妨げる段差や不便を減らす考え方)は、特別な設備を並べることだけではありません。椅子の位置を変える、通路の荷物を片づける、説明を短く区切る、使いやすい場所へ道具を移す。そんな小さな工夫も、立派な帰り道になります。
出来ない人を直すより、できる環境へ近づけた方が、暮らしはやさしく動き始めます。
手すりを付けたのに使われないこともあります。立派なスロープを造ったのに、傾斜が急で上れないこともあります。サケが魚道の入口を見つけられないように、人にも「設備はあるけれど使いにくい」という残念な出来事が起こります。
そこで必要になるのが、十人十色の見方です。
右手が使いやすい人もいれば、左側から支えてほしい人もいます。車いすを使う人、杖で歩く人、壁に手を添えれば進める人もいます。認知症のある方には、立派な案内板より、馴染みのある色や職員の穏やかなひと言の方が道しるべになることもあるでしょう。
「良い設備を付けたから完成」ではなく、本人が実際に通れたところまで見届ける。合わなければ位置を変え、高さを直し、臨機応変に別の方法を試す。その姿勢は、魚道を造る時も、介護の暮らしを整える時も変わりません。
介助する側にも利点があります。無理な抱え上げが減れば腰を守れます。移動がなめらかになれば、本人を急かす場面も少なくなります。本人のために造った道が、家族や職員の体まで助けてくれるのです。
魚道は、魚だけが得をする裏道ではありません。命が行き来できる川を取り戻すための道です。家の手すりやスロープも、特定の誰かを特別扱いする設備ではなく、暮らしに参加できる人を増やす入口なのでしょう。
「通れないなら、もっと頑張って」ではなく、「どんな道なら通れるだろう」と考える。サケが教えてくれたその発想を玄関や廊下へ持ち帰れば、人間の町も少し泳ぎやすくなりそうです。
[広告]まとめ…サケの帰り道を直すことは人間の歩き方を直すこと
サケの大砲は、銀色の魚を秋空へ撃ち上げる豪快な装置ではありませんでした。人間が造った壁を越えてもらうため、やわらかな筒で上流へ運ぶ、魚専用の送迎路です。
魚の階段を造り、エレベーターで持ち上げ、長いチューブまで通す。その姿は奇想天外ですが、よく考えると少し照れくさい話でもあります。サケの帰り道を塞いだのは人間であり、その後始末に試行錯誤しているのも人間だからです。
それでも、失敗を認めた後に道を繋ぎ直すことには意味があります。過ぎたことを悔やんで川岸に立ち尽くすより、魚が通れる水の流れを造る方が、次の命へ希望を渡せます。
間違えないことより、気づいた後に誰かが通れる道を造れることの方が、未来を明るくします。
その考え方は、人の暮らしにも持ち帰れます。段差を越えにくいなら手すりやスロープを考える。文字が見えにくいなら大きくする。話が伝わりにくいなら、声量だけで勝負せず、言葉の速さや順番を変えてみる。
本人へ「頑張って」と渡していた宿題を、環境を整える側が少し引き取る。それだけで、行き止まりに見えた場所から一歩前進できることがあります。
秋の食卓で鮭を焼く日、いくらの値札に思わず二度見する日、玄関の木彫り熊と目が合う日。海から川へ帰るサケの長旅を、ほんの少し思い出してみたいものです。
サケは空を飛びたかったわけではありません。ただ、生まれた場所へ帰りたかっただけです。
帰りたい命に道を造る。出かけたい人に道を造る。もう一度やってみたい気持ちに道を造る。そんな小さな道が増えていけば、人間の身勝手さも、誰かを支える知恵へ少しずつ変えていけるでしょう。
今回の記事で魚の大砲から飛び出してきたのは、サケだけではありませんでした。困っている側を励ます前に、こちらが壁になっていないかを見つめる、新しい視点も一緒に飛び出してきたようです。
[ 広告 ]今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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