新種発見に年齢制限なし?~「これ何?」から始まる小さな科学~

[ その他・雑記 ]

はじめに…いつもの道端にも「まだ名前のない何か」がいるかもしれない

子どもが公園でしゃがみ込み、「この虫なに?」と小さな指を伸ばす。畑仕事をしている人が、葉の裏に見慣れない小さな虫を見つける。毎朝同じ道を歩いてきた高齢者が、「こんなの、この辺では見た覚えがないなぁ」と足を止める。新しい生き物との出会いは、白衣を着た研究者の前だけで起きるものではありません。

老若男女、誰にでもその入口はあります。虫に詳しくなくても構いません。「名前は知らないけれど、何かいつもと違う」という小さな違和感があれば十分です。専門知識がないから気づけないとは限らず、むしろ先入観が少ない子どもの目や、何十年も同じ土地を見てきた人の記憶が、思わぬ変化を拾うこともあります。

新種発見の最初の一歩は、難しい知識より「これ、何だろう?」を通り過ぎないことなのかもしれません。

もちろん、見たことのない虫を見つけたからといって、その場で新種決定とはいきません。「これは世紀の大発見だ!」と虫かごを掲げても、虫本人はたぶん無言です。しかも、よく調べれば珍しい既知種だったり、幼虫と成虫で姿が大きく違っていただけだったりするでしょう。それでも、写真を撮り、見つけた日時や場所を覚えておけば、その小さな発見は立派な観察記録になります。

そして面白いのは、まだ見つからないなら人間側にも工夫の余地が山ほどあることです。朝と夜で場所を変え、草の上だけでなく落ち葉の下や木の幹、水辺にも目を向ける。季節や光、天候まで変われば、出会う顔ぶれも千差万別です。ただし、珍しい生き物ほど「見つけた後」の接し方まで大切になります。

いつもの庭や散歩道が、実はまだ完成していない生き物図鑑の1ページだとしたら――少し外へ出るのが楽しくなりませんか?大発見を狙わなくても良いのです。まずは足元の小さな「?」を拾うところから、科学は始まります。

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第1章…子どもも高齢者も発見者になれる~違和感を見逃さない目が最初の一歩~

新種を見つける人と聞くと、山奥へ分け入る研究者や、専門の道具を抱えた調査隊を思い浮かべるかもしれません。もちろん、そうした専門家の力は欠かせません。ただ、「最初にその生き物へ気づく人」まで専門家である必要はありません。老若男女、自然の前では誰にでも発見者になる可能性があります。

実際、日本では高校生が授業中に石を割り、そこから見つけた約30万年前の昆虫化石が、専門家の研究を経て新種と確認された例があります。発見の瞬間は研究所ではなく学校の授業中でした。反対に、オーストラリアでは長く化石採集を続けてきた80代のアマチュア研究者が採集した昆虫化石から、新種が明らかになっています。若さだけでも、肩書だけでも決まらない世界なのです。

子どもには、子どもならではの目があります。大人なら「ただの小さな虫」と通り過ぎるところで、しゃがみ込み、「この羽だけ色が違う」「脚が変」「こっちは飛ばない」と、妙なところへ食いつきます。知識が少ないからこそ、最初から名前を決めつけません。「知らない」が恥ずかしくない年頃の好奇心は、観察ではなかなか侮れない力です。

大人になると別の武器が増えます。スマートフォンで写真を残し、日付や時間、場所、大きさを記録できる。数日後にもう一度同じ場所へ行き、同じ虫がいるか確かめることも出来ます。百聞は一見にしかずと言いますが、自然観察では「一見したら記録しておく」まで進めると、その一見がグッと価値を持ち始めます。

そして高齢者には、長い時間を同じ地域で過ごしてきたからこその記憶があります。毎年いつ頃セミが鳴くか?、昔はどんなトンボが飛んでいたか?、畑にどんな虫が集まっていたか?「こんな虫、見たことがない」という一言だけで新種とは判断できませんが、「いつもの景色との違い」を感じ取れることには意味があります。珍しい既知種かもしれませんし、分布域が変化して現れた種かもしれません。そこから専門家が興味を持つ記録へ育つ可能性もあります。

発見する力とは、知っている名前の数より「いつもと違う」を捨てずに残す力なのかもしれません。

学校を飛び出して大冒険をしなくても、発見の入口はあります。庭木を眺める子、通学路の水路を見る学生、畑仕事をする大人、毎朝同じ公園を歩く高齢者。それぞれ見ている場所も時間も違うので、出会う生き物も千差万別です。全員が同じ場所を調べるより、むしろ生活の違う人たちがそれぞれの足元を見ている方が、自然を見る目は広がります。

もちろん、見慣れない虫を発見したからといって素手で捕まえる必要はありません。毒や刺傷の危険が分からないものには触れず、安全な距離から写真を撮るだけでも十分です。「何時頃だったか」「どんな場所だったか」「何センチくらいに見えたか」を覚えておけば、後から正体を確かめる材料になります。

新種発見というと人生に一度あるかないかの大事件に聞こえますが、その入口は意外なほど日常的です。子どもの「これ何?」も、高齢者の「こんなの昔はいなかったぞ」も、同じスタート地点に立っています。そこから先に何が待っているかは、まだ誰にも分かりません。それこそが、小さな生き物を観察する楽しさなのでしょう。


第2章…見つける人と証明する人は別で良い~新種として認められるまでの長い道~

見慣れない虫を見つけて写真に残した。図鑑を眺めても、どうもしっくりくる種類がない。色も違うし、羽の形もちょっと変だ。「これはもしや……」と胸が高鳴る瞬間ですが、そこから新種への道は急に慎重になります。

新種かどうかを確かめるには、既に知られている近縁種との違いを調べなければなりません。体の形や模様だけでなく、触角や脚、生殖器など細かな特徴、生息場所、行動、食べ物、場合によってはDNAまで材料になります。そっくりな既知種が世界のどこかで既に記載されていないか、博物館などに保管された標本とも向き合います。まさに慎重審議。「青いから新種!」では、虫の世界はなかなか判子を押してくれません。

そして大切なのが、模式標本(学名を使う際の基準となる標本)です。動物の新種では、名前の基準となる標本を定め、現存する標本なら原則として保管先となるコレクションを示す仕組みがあります。国際動物命名規約は、新種名の基準となる標本を後世の研究者も確かめられる形で残すことを重視しています。

ここには、少し意外なポイントがあります。世界中の新種を審査して「はい合格、新種です」と認定証を渡す巨大な役所があるわけではありません。国際的な命名規則に沿って専門家が特徴を示し、学術的に公表し、その後も研究者たちが検討できる状態にすることで、科学の世界へ名前が置かれていきます。国際動物命名規約を扱う委員会自身も、新種の記載は分類の専門家が担う仕事であり、十分な研究によって既知種ではないことを確かめる必要があると説明しています。

「最初に見つけた人」と「新種だと科学的に示す人」は、同じ人でなくても良いのです。

これなら、子どもや一般の人が珍しい虫を見つけても気後れする必要はありません。「自分は専門家じゃないから」と写真を消してしまうより、日時、場所、周囲の環境、大きさなどを残し、詳しい人へ繋げれば良いのです。最初の気づきを拾う人、詳しく観察する人、標本を調べる人、論文として世に出す人。役割分担で大発見へ進むこともあります。

むしろ科学らしいのは、その途中で「新種じゃなかった」と分かることさえ無駄にならない点でしょう。珍しい既知種だった、知られていた生息範囲より離れた場所にいた、季節として珍しい時期に現れた。それだけでも自然を知る材料になります。「新種じゃなかった、解散!」では少々もったいない。虫を相手にした試行錯誤は、当たり外れだけで終わる話ではないのです。

新種を見つける物語は、ファーブルのような1人の天才が虫を掲げて完結するというものではありません。最初の「変だぞ?」を誰かが拾い、それを別の誰かが確かめ、さらに後の研究者が見直せる形へ残していく時代です。そのバトンが繋がった時、小さな1匹に人類共通の名前が生まれます。

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第3章…いないなら探し方を変えてみる~朝昼晩・高さ・光・罠で未知に近づく知恵比べ~

同じ公園を昼間に何度歩いても、同じ虫ばかり見える。そんな時、「この場所には珍しい虫なんていない」と決めてしまうのは少し早いかもしれません。虫にも活動時間があり、好む高さがあり、雨や気温、季節によって出てくる場所まで変わります。こちらが毎日午後2時に訪ねているのに、相手の営業時間が午後8時からだったら、永遠にスレ違います。虫に「営業時間はこちらです」と看板を出してもらうわけにもいきません。

そこで面白くなるのが、大人ならではの工夫です。朝露の残る草地を見る日、昼に花や樹皮を観察する日、夕暮れに水辺を歩く日、夜に灯りへ集まる虫を見る日。同じ場所でも時間を変えるだけで、景色の中を動く生き物は変わります。さらに地面、落ち葉、低い草、木の幹、枝葉と視線の高さを変えれば、同じ数十メートルの範囲でも別の世界が広がります。

昆虫調査では実際に、草むらを網で掬うスウィーピング、枝の下へ布を広げて落ちてくる虫を見るビーティング、地表を歩く虫を調べるピットフォールトラップ、飛翔する虫を調べるマレーズトラップ、夜行性の虫を光へ誘うライトトラップなど、目的に合わせて異なる方法が使われます。一種類の方法で全ての虫が見つかるわけではなく、複数の方法を組み合わせることで観察できる種類の幅が広がります。

「見つからない」は「いない」の証明ではなく、人間側の待ち合わせ場所が違っているだけかもしれません。

ここからが試行錯誤の楽しいところです。昨日は晴天だったから、今日は雨上がりに歩いてみる。草原ばかり見ていたから、今度は朽木や落ち葉を見る。夜なら白い布の近くへ光を当て、飛んできた虫を写真に残してみる。花へ来る虫を見たいなら、虫そのものを追い回すより、どの花に誰が訪れるのかを待つ方が面白いこともあります。縦横無尽に走り回るより、虫の都合へこちらが寄せていくわけです。

季節をまたぐ発想もあります。春に何も見つからなくても、夏には成虫が現れるかもしれません。夏には姿を見せなかった虫が、秋の落ち葉の下では幼虫として暮らしていることもあります。1日で決着をつけず、「同じ場所を1年間、眺めてみる」という方法だって立派な観察です。大人の自由研究が子どもの宿題より長期戦になり、気づけば翌年へ突入……締切がないって素晴らしいような、恐ろしいような…。

ただし、本格的な採集方法には虫を死なせるものもあります。希少種かどうか分からない段階で大量に捕るより、一般の自然観察なら写真、短時間の観察、必要最小限の一時的な捕獲から始める方が穏やかです。調査場所によっては採集そのものに制限がある場合もありますし、知らない虫なら毒や刺傷の危険も考えなければなりません。新種探しが始まった初日にこちらが病院の新規患者になっては、少々方向が違います。

そして、工夫するほど大切になるのが記録です。「昨夜はいた」だけでなく、時刻、天候、気温の感じ、場所、植物、水辺からの距離などを残しておく。同じ条件を何度か試せば、その虫が偶然そこにいたのか、何かを求めて現れているのかも少しずつ見えてきます。昆虫調査でも、採集方法や生息する高さ、季節を変えることで得られる種類が変化することが知られています。

未知の生き物を探すというと、密林の奥へ探検隊を送り込みたくなりますが、身近な場所にもまだ工夫の余地はあります。同じ庭を朝に見る、夕方に見る、雨の翌日に見る、地面ではなく頭上を見る。新しい土地へ行く前に、自分の見方を変えてみる。その知恵比べこそ、大人が新種発見へ参加できる面白い方法なのかもしれません。


第4章…名前が付いた後こそ慎重に~乱獲と絶滅と自然介入の思わぬ連鎖~

新種が見つかり、名前が付き、その存在が世の中へ知られる。発見者にとっては胸が躍る瞬間でしょう。「あの小さな虫、本当に誰も知らなかったんだ」と分かったら、家族どころか近所中に話したくなるかもしれません。ところが、生き物の立場から見ると、この瞬間から少し事情が変わります。

昨日まで誰にも注目されず、静かに草むらで暮らしていた虫が、「珍しい」「ここにしかいない」と知られれば、見に来る人が増える可能性があります。写真だけならまだしも、標本として欲しい、飼育したい、珍しいものを手元へ置きたいという人まで集まれば、生息数の少ない種類には大きな負担になりかねません。

珍しい生き物ほど、生息場所そのものが重要な情報になります。しかし、その場所を細かく公開することが、いつでも親切とは限りません。人が集中して植物を踏み荒らしたり、朽木をひっくり返したままにしたり、採集を繰り返したりすれば、虫だけでなく、その虫が暮らす小さな環境まで変わってしまいます。発見した喜びで住所まで大公開した結果、翌週には虫より人間の方が多かった……では、流石に主役交代が過ぎます。

新種を見つけた人に必要なのは、「どこにいたかを知らせる力」と同じくらい、「どこまで知らせるかを考える力」なのかもしれません。

さらに難しいのは、その虫だけを守れば解決するとは限らないことです。自然界では、食べる側と食べられる側、植物と花粉を運ぶ虫、寄生する生き物、枯れたものを分解する生き物などが複雑に繋がっています。食物網(生き物同士の食べる・食べられる関係が網のようにつながったもの)の中では、小さな1種でも別の生き物と無関係ではいられません。

もし、ある虫が別の虫を食べて数を抑えていたとします。その虫だけが激減すれば、今まで食べられていた側が増える可能性があります。さらに、その増えた虫が植物を多く食べれば、植物を利用していた別の生き物にも影響が届くかもしれません。こうした連鎖はトロフィックカスケード(食う・食われる関係の変化が生態系の別の段階へ波及する現象)と呼ばれます。

もちろん、1種が消えれば必ず恐ろしい生き物が大量発生する、という単純な話ではありません。自然は栄枯盛衰を繰り返しながら動いていますし、同じ役割を複数の生き物が担っている場合もあります。それでも「小さな虫1匹くらい減っても平気だろう」と決めつけるには、私たちは自然の関係を知らなさ過ぎます。

反対に、「困った虫がいるなら、その天敵を増やせば良い」という発想にも慎重さが必要です。害虫対策のために別の生き物を持ち込んだ結果、その生き物が予定外の獲物まで食べたり、新しい地域へ広がったりすることがあります。生物的防除(天敵などの生き物を利用して害虫を抑える方法)は役立つ技術ですが、導入する生物や環境を十分に考えなければなりません。自然界の相関関係は、人間の「この虫だけ減ってくれれば助かる」という注文書ほど単純ではないのです。

新種発見のニュースを見ると、つい「捕まえた!」「名前が付いた!」をゴールにしたくなります。でも、その生き物からすれば、人間に発見される何千年も前から普通に暮らしてきたのでしょう。こちらが知らなかっただけで、向こうには向こうの生活があります。

だから新しい生き物を見つけた時、本当に大切なのは一喜一憂して騒ぐことだけではありません。その場所を荒らさないこと、必要以上に採らないこと、詳しい人へ丁寧に繋ぐこと、そして分からないうちは余計な手を加えないこと。新しい名前を1つ増やすことと、その名前の持ち主がこれからも生きられることは、同じくらい大切です。

発見とは「人間が知った瞬間」であって、生き物の物語の始まりではありません。むしろ、知ってしまった私たちの側に、新しい付き合い方が始まる瞬間なのでしょう。

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まとめ…世界の「まだ知らない」に出会う席は誰にでも空いている

新種を見つけるという出来事は、遠いジャングルへ向かう探検隊だけのものではありません。庭先の葉っぱ、公園の水辺、畑の隅、通学路の草むら。いつもの景色の中で「ん?こんなのいたっけ?」と足を止めるところから始まる可能性があります。老若男女、その最初の席には誰でも座れます。

子どもなら、名前を知らないからこそ素直に違いを見ることが出来ます。大人なら写真や日時、場所を残し、条件を変えて観察する工夫が出来ます。長く同じ土地で暮らしてきた人なら、「今年は違う」「こんな姿は見覚えがない」という時間の積み重ねがあります。年齢によって観察の方法が変わるなら、それは弱点ではなく、それぞれ違った発見の入口なのでしょう。

そして、珍しい生き物を見つけても、すぐに新種と決まるわけではありません。それで夢が萎む必要もありません。最初に気づく人、詳しく調べる人、既知種と比較する人、名前を付けて後世へ残す人。それぞれの役割が繋がれば、小さな違和感が科学的な発見へ育っていきます。1人で全てを背負わなくて良いところも、科学の面白さです。

見つからなければ、人間側が工夫すれば良い。朝にいなければ夕方、地面にいなければ木の上、晴れの日に会えなければ雨上がり。季節まで変えて待ってみると、同じ場所とは思えないほど違う生き物が現れるかもしれません。「今日も何もいなかった」と帰宅した翌朝、玄関の壁に見たことのない虫が止まっていたら……散々歩いたこちらとしては「そこにいたんかい!」と言いたくなります。それも自然観察の楽しさです。

ただ、発見した瞬間から人間側には少し慎重さも必要になります。珍しさが広まれば、たくさんの人が集まり、採集が繰り返されることもあります。生き物は単独で暮らしているわけではなく、食べたり食べられたり、植物を利用したり、別の生き物の数を抑えたりしながら複雑に繋がっています。1つを動かせば、思いもよらないところまで変化が届く可能性があります。

新しい生き物を発見する喜びと、その生き物をそっと残しておく思いやりは、同じ場所から始まります。

新種だったらもちろん大発見です。珍しい既知種だったとしても、初めて知った自分にとっては一期一会の出会いです。さらに、ごく普通の虫だと分かったとしても、「普通だと分かるところまで見た」という経験は残ります。成果が名前の付く新種だけだと思わなければ、自然観察はずっと気楽になります。

世界の全てを知ってから楽しもうとしていたら、人生の方が先に終わってしまいます。分からないものが残っているから、「次は何だろう」と外へ目を向けられる。子どもでも大人でも高齢者でも、明日出会う小さな虫の正体はまだ分かりません。

新種発見の席は、研究室の奥だけに用意されているわけではありません。いつもの道を少しゆっくり歩き、葉っぱの裏を眺め、見知らぬ小さな命に「君は誰だ?」と思ってみる。その好奇心がある限り、私たちは何歳になっても発見者候補なのだと思います。

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