6月2日のおむつの日にあえて“見えないもの”を考えてみることにした

[ 6月の記事 ]

はじめに…“可愛い”と“手間がかかる”の間にあるもの

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赤ちゃんは泣く。

大声で泣く。

おむつが濡れたって、暑いって、眠いって、なんでもかんでも泣いて教えてくれる。

可愛いから許されるし、我が子だからこそ「はいはい、今替えるからね〜」と声をかけながらせっせとおむつを交換する。

一方、人生の大ベテランである高齢者は泣かない。

泣かないどころか、何も言わずにじっとしている。

「我慢強い」という美徳で片付けたくなるけれど、ちょっと待ってほしい。

実は、それ、言葉がないんじゃなくて、「言ってもどうせ後回しにされる」と知っているから黙ってるのかもしれない。

6月2日は「おむつの日」。

語呂合わせで「お(0)む(6)つ(2)」。

なんとも可愛らしいこの記念日は、赤ちゃんの健やかな成長を願って作られたらしい。

でも、私は思うのです。

おむつって、赤ちゃんだけのものだっけ?

違うよね?

じゃあ、高齢者のおむつについて、今日はちょっと真面目に、でも肩肘張らずに語ってみませんか?💚

介護の現場で、おむつは「日常」であり「戦場」であり、そしてたまに「笑えるネタ」にもなる。

だけど、笑える裏には、ほんのりと切なさと不満と、それでも誰かを支えたいって気持ちがある。

赤ちゃんと高齢者。

どちらもおむつを使うのに、ケアの仕方には大きな差がある。

それは“可愛さの違い”か?“見えるか見えないか”の差か?はたまた“臭いのパンチ力”の問題か――?

おむつの日に、あえて「高齢者のおむつのリアル」を覗いてみたら、見えてくるものがあるかもしれません。

菌は見えなくても、怠慢は見えてしまう。

それでも、そこに笑いと愛と、ちょっぴりの毒を混ぜたら、きっと今日も誰かが読んでくれる。

さあ、一緒におむつの話を、思いっきり、真剣に、でも楽しく語ってみましょう。

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第1章 赤ちゃんのおむつは濡れると教えてくれるのに高齢者のおむつは黙ったまま


赤ちゃんのおむつは濡れると教えてくれるのに、高齢者のおむつは黙ったまま

赤ちゃんのおむつって、すごいんです。

おしっこをすれば、青いラインがスッと現れて「はい、交換の時間ですよ~」と教えてくれる。

もはや現代のハイテク布団のような働き。

しかも泣いて教えてくれるし、お母さんもお父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、「あらあら、替えなきゃね」と全力で対応。

自分の睡眠時間が削られようと、我が子のお尻は最優先。

ところが高齢者のおむつは、まるで沈黙のプロ。

濡れても黙ってる。

ムレても黙ってる。

中に誰か入ってるんじゃないかってくらいしっかり吸ってるけど、本人は何も言わない。

いや、言わないというより、“もう言ってもムダ”と学んでしまったのかもしれない。

赤ちゃんと同じように排泄しても、反応が違う。

いや、「反応されない」という反応が返ってくることのほうが多い。

そりゃそうだ。介護現場は忙しい。

あっちでナースコール、こっちで転倒未遂、手が足りない、時間が足りない、ついでに心の余裕も足りない。

でもね、その“ついで”にされることの積み重ねが、じわじわと命を削っていくのよ。

おむつって、ただの吸収材じゃない。

あれはもう、日常と不快と病気の境界線みたいなもん。

それなのに、なぜ赤ちゃんには「今だ!」と敏感に反応できるのに、高齢者には「あとでいいや」となってしまうのか。

違いは何だろう。

泣かないから?

見えないから?

臭うから?

それとも…可愛くないから?

いやいやいや、可愛いかどうかでおむつ交換の頻度が決まってたら人類終わるでしょ。

もしかしたら、「可視化されてるかどうか」って大きいのかもしれない。

赤ちゃんはラインでわかる。

つまり“見える”。

高齢者のおむつには、そんなラインなんてない。

誰かがめくって確かめなければ、わからない。

“見えるかどうか”の差が、“替えようとするかどうか”の差につながってるのかもしれない。

でもそれって、本当に“尊厳”の問題?

見せたらかわいそうだからって?

いやいや、放置されるほうがよっぽどかわいそうでしょ。

尊厳ってのは「触れない」ことじゃなくて、「ちゃんと触れる」ことじゃないのかな。

見ないことが優しさなら、見てるふりして放っておくのは何だろう。

見えることで守れることって、実はたくさんあるのかもしれない。

おむつが黙ってるなら、こっちが聞きに行くしかない。

おむつが語らないなら、こちらの感性で感じるしかない。

だって、それができるのって、人間だけなんだから💛。

第2章 おむつは吸うけど菌までは吸わない!誰かが替えなきゃ待つのは病気


おむつは吸うけど、菌までは吸わない。

誰かが替えなきゃ、病気になる。

おむつって、ほんとうによくできてる。

最近では「3回吸収OK!」とか「夜間も安心!」なんて、もうちょっとした家電のようなスペックの売り文句が並ぶ。

でも声を大にして言いたい。

**吸ってくれるのは尿であって、菌じゃないからね?**って。

よくある誤解、「高性能おむつなら、替えなくても安心でしょ」。

それ、じつはとっても危ない。

おむつは確かに吸収するけれど、その“中身”には細菌やカビのような微生物がこっそり潜んでいる。

高齢者の皮膚は薄くて乾燥しがち。

そこに長時間の湿気とムレと汚れが重なれば、もう菌たちにとってはまるで温泉宿。

チェックインしたら最後、なかなか出ていってくれない。

そのままにしておくと、尿路感染症や膀胱炎、そして発熱…気づけば救急搬送。

なんなら入院にまで至るケースもある。

でもね、入院したらしたで、また別の問題が出てくるの。

介護施設って、おむつ代は介護報酬に含まれているんです。

つまり、“替えても替えなくても、収入は同じ”。

でも、感染症になって病院に行ったとたん、おむつは医療保険の外。

実費徴収。

さらに、入院したら施設側のケアは不要になる。

でも即ベッドが空くわけではないので、しばらくは“空きベッド料”として数日間分のベッド代を請求できる。

介護職の手間は減って、収入はゼロにはならない――ある意味“効率的”な仕組みに見えてしまう。

でも、その“効率”の陰で誰が泣いてるかって?

そう、利用者本人と、その家族です。

医療費と介護費がダブルでかかる。

しかも、おむつは病院では実費だ。

高額化していく明細をみて、家族からしたら、**「これ、予防できたんじゃないの?」**って気持ちがぬぐえない。

そして現場の誰も悪くないのに、結果として負担だけがじわじわのしかかってくる。

でも一番忘れちゃいけないのは、本人自身の苦しさだよね。

湿ったままの不快感。

ムレてふやけた皮膚。

痛みもかゆみも言えず、ただじっとしている。

おむつが“夜間安心”であるほどに、誰かが安心して“放置”していく。

その間にも、菌は静かに繁殖してる。

誰かが替えなきゃ、病気になる。

誰かが気づかなきゃ、苦しさは誰にも伝わらない。

高吸収って言葉は魅力的だけど、それを理由に交換を先延ばしにするなら、もうそれは「便利」じゃなくて「放置を正当化するおまじない」になってないか?

現場も大変。

人も足りない。

時間も限られてる。

だけどだからこそ、「ちゃんと替える」っていう超基本な行為こそが、最大の予防医療になる。

おむつは“替えてこそ”🩵真価を発揮するもの。

替えないおむつは、ただの湿った雑巾。

…いや、それ以下かもしれない。

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第3章 抗菌おむつってないの?と検索して気づいた本当に守るべきもの


「抗菌おむつってないの?」と検索して気づいた、本当に守るべきもの

ある日ふと、「抗菌おむつってないのかな?」と思った。

だって、今や世の中は“抗菌”だらけ。

靴下もマスクもまな板も、下手したらスマホケースですら「抗菌」って書いてある。

ならば、おむつこそ抗菌の本丸じゃない?

だってね、菌の集い率ナンバーワンとも言える場所じゃない?

で、アフィリエイトであちこち覗いてみたけど…出てこない。

ぜんぜん出てこない。

“抗菌シート入り”とか、“消臭技術搭載”とか、それっぽい言葉はあるものの、「これは抗菌ですよ!」とド直球で宣言してるおむつには、なかなか出会えない。

もうこれは恋愛で言うところの「好きって言わないけど毎日Lineくれる」くらいの遠回しさ。

こちとらストレートに愛を求めてるのに。

でも、その理由がわかった瞬間、ちょっと背筋が伸びた。

抗菌って、簡単に言えば「菌を殺す・増やさない」こと。

でもそれをおむつに本気で仕込むとどうなるか?

そう、肌に悪いかもしれない。

しかも、長時間肌に密着するものに抗菌成分を入れたら、かぶれる・かゆくなる・アレルギーが出る…そんなリスクが付きまとう。

つまり、抗菌すればするほど、逆に“肌が壊れる”可能性があるってこと。

しかも、おむつってそもそも“交換される前提”の使い捨て品。

抗菌加工したって、尿や便でびしょびしょになったら、その成分ごと流れちゃう。

それって、「新品の白い靴を履いて泥道を歩く」くらい虚しい努力かもしれない。

そして何よりも、抗菌おむつがもし存在したとしても、高い。

もうね、「このおむつ、成分表に“愛”って書いてない?」ってくらいプレミア価格になる。

そんな高価なおむつ、常用できる人はほんのひと握り。

大多数の現場では、「コスパ」と「手間」と「効率」が生き残りのカギ。

抗菌よりも先に、“替えること”ができる人手と時間が必要なのよ。

そう気づいたとき、ふと思った。

ああ…抗菌って、道具に求めるんじゃないんだ。

菌を減らす努力って、やっぱり人の手とまなざしが担ってるんだなって。

おむつそのものを“抗菌仕様”にするより、**「ちゃんと洗う」「しっかり拭く」「きちんと乾かす」**という、地味すぎるケアの積み重ねが、実は最強の抗菌対策

おむつが抗菌じゃなくたっていい。

でも、ケアする人の手✌が“無関心”じゃなかったら、それで十分守れることがある。

見えない菌を恐れるよりも、見て見ぬふりをする習慣のほうが、ずっと怖い。

抗菌おむつを探してみてよかった。

だってそのおかげで、守るべきものが“おむつの性能”じゃなくて、“人のぬくもり”だって、思い出せたんだから。


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第4章 おむつを“こねくりケア”した先にあった私のリアル体験談は…気づきの汗とパンパンの不快感


おむつを“こねくりケア”した先にあった、私のリアル体験談。

気づきの汗とパンパンの不快感。

あれは忘れもしない、全身麻酔での手術の翌日だった。

術前に浣腸され、手術中にはバルーン(尿道カテーテル)も装着され、「もはや人間というより医療機器の一部では?」という状態で、麻酔が覚めるまで丸一日を過ごしたわけだけど、ようやく麻酔が切れかけてきた頃、私の感覚、意識はある一点に全集中していた。

そう――おむつがパンパンだったのだ。

「え?失禁した…?いやいや、カテーテル入ってるし…じゃあこれ、なに?なにこの不快感?」

それが、汗。

ただただ、汗。

麻酔明けって、身体が急激に動き出すから、めちゃくちゃ発汗するんですよね。

それが、おむつにしっかり吸収されてたんです。

結果として、まるで水風船に座ってるみたいな、なんとも言えないふわっとしたパンパン感が、体の芯から気持ち悪かった。

腰の部分に座布団を敷き込んだような段差の感覚。

もちろん、失禁はしていない。

でも、看護師さんが巡回と点滴の交換に来てくれて、「バルーンから漏れてない?」「おむつ濡れてない?」と、しつこく私が訴えるたびにおむつを確認してくれる。

そのたびに私は羞恥心に耐えることになるけど、動けない上に不快なのだから仕方ない。

汚染無し…そう告げて去っていく看護師…。

麻酔が覚める時は動いちゃいけない決まりだ。

そっと交換の手間が省かれた…とは思いたくないところだ。

あの時ね、思ったんですよ。

**これ、毎日おむつ履いてる人、ずっとこんな感じじゃないのか?**って。

蒸れてる。

湿ってる。

でも、何が原因かわからない。

しかも、伝える手段がない。

あるいは、伝えても「また汗でしょ」と受け流される。

自分の身体のことなのに、誰にもちゃんと届かない。

なんて孤独な感覚。

そして、もっと言えば、この感覚は「おむつを替えたかどうか」じゃなくて、**「誰かがちゃんと感じようとしてくれてるかどうか」**で救われるんですよね。

看護師さんが来てくれて、確認してくれて、やっぱり気づいてくれて、「汗でしたね」って言ってくれた。

そのやりとりだけで、不快感はゼロにはならないけど、心はすごく軽くなった。

思えば介護の現場では、そういう“気づき”がたくさん見過ごされてるかもしれない。

おむつの中って、見えないから、つい“わかったつもり”になる。

「どうせ失禁してないでしょ」

「さっき替えたばかりだし」

「夜中は寝ててくれた方が助かるし」

でもね、失禁してなくても、不快感は存在するの。

たとえ“きれいなおむつ”だとしても、本人にとっては“びしょびしょの地獄”かもしれない。

そして、それを伝えられないことこそが、もっと深い不快を生む。

「濡れてないから大丈夫」じゃなくて、「気持ち悪くない?」って聞いてみる。

「汚れてないから見なくていい」じゃなくて、「どう感じてるかな」って想像する。

それだけで、“おむつ”ってただの消耗品から、“対話のきっかけ”に変わる気がした

私が経験したあの一夜、決して忘れない💡。

パンパンの感触と、誰かに気づいてもらえるありがたさ。

そしてあの時、私は初めて「おむつがパンパンで気持ち悪い人の気持ち」が、ちょっとだけわかった気がした。

まとめ 見えない菌と見えてる怠慢と…それでも今日も誰かの排泄を支える人へ


見えない菌と、見えてる怠慢と、それでも今日も誰かの排泄を支える人へ。

6月2日は「おむつの日」。

赤ちゃんの成長を願って作られた記念日だけど、こうして改めて考えてみると、私たちの社会って“おむつ”のことをけっこう都合よく扱ってきた気がする。

吸ってくれるから便利、替えなくても漏れないから安心、夜間に起きなくて済むから助かる――それらすべてが「ありがたい」けど、「あたりまえ」になった瞬間から、大切な何かを見落とし始める。

赤ちゃんは泣いて知らせてくれる。

おむつが濡れてるって、直接訴えてくれる。

でも高齢者は、黙っている。

いや、黙らされてることもある。

見えないことを“尊厳”と呼んで、確かめないことで“配慮”した気になって、気づけばパンパンの不快が、誰の耳にも届かないまま膀胱炎になっていく。

抗菌おむつなんて、なかった。

でもその代わりに、手があった。

目があった。

声があった。

心🩷があった。

抗菌素材は使えないかもしれないけど、“思いやり”ってけっこう万能な天然成分なんじゃないかな、って思う。

現場は忙しい。

みんな疲れてる。

わかってる。

でも、「替える」っていう行為には、ただの衛生管理以上の意味がある。

それは、“私はあなたの不快に気づいているよ”って伝える人間らしい対話の一部なんだ。

今日はおむつの日。

だけど、おむつそのものを称えるより、おむつの向こう側にいる“その人”の快適さや尊厳に心を寄せる日にしてみてもいいんじゃないかな。

見えない菌も怖いけど、もっと怖いのは、見える怠慢に気づかなくなること。

誰かの排泄を支えるという、めちゃくちゃ地味で、めちゃくちゃ大事なケアを、今日もこつこつ積み重ねてるあなたに、そっとエールを送ります

おむつは、替えなきゃ意味がない。

替えることで、守れるものがある。

そして、そこには必ず“誰かのぬくもり”がある。

それが、この記念日に伝えたかった、私からの一番大きなありがとう。

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