7月1日は本能寺の変─消えた信長と世界の謎~施設の談話室で探偵気分を味わいませんか?~

[ 7月の記事 ]

はじめに…本日は日本史最大の“迷宮入り”事件の日です

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それは、炎の中に消えた天下人の話です。

けれど、火に包まれたその夜の記録には、奇妙な点がいくつもあるんですよ。

だってね、遺体が見つからなかったんです。

天下布武と叫んで突き進んだ織田信長。

敵に囲まれて絶体絶命――までは、まぁ分かります。

でも、誰も“見ていない”のに、なぜか全国の大名たちは「討ち死にした」と知っていた。

え?誰が言ったの?と聞きたくなるほど、伝わる話はどこか作られたような整い方をしているんです。

時は天正十年六月二日。今のカレンダーに直すと、実は今日、七月一日がその日らしいんです。

「いやいや、Wikipediaには六月二十一日って書いてあったぞ」との声も聞こえてきそうですが、そこにもワケがあります。

暦というのは案外トリッキーでして、日本とヨーロッパでは変換にズレが出るんですよね。

けれど、そういう小さなズレが大きな謎の入り口になることって…あるんです。

さあ、今日この記念すべき日に、施設の談話室でひとつ探偵ごっこをしてみませんか?

「信長はどこへ消えたのか」「光秀は本当に単独犯なのか」「秀吉の大返しはどうして早すぎるのか」

高齢者さんの豊かな人生経験と、ちょっとした勘が、歴史のミッシングリンクをつなげてくれるかもしれません。

おしゃべりの中で思わぬ真相が飛び出して、「信長、実は南蛮船に乗ってたんじゃないの!?」なんて話で盛り上がったら最高です🩷。

本日は、日本史最大のミステリーが始まった日。

その真相を知るのは、あなたかもしれません――。

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第1章…火の中に誰かがいた──けれどその誰かを誰も見ていない


それは、あまりにも有名なセリフから始まるんです。

「敵は本能寺にあり」――そう言って明智光秀が謀反を起こし、天下人・織田信長が本能寺にて壮絶な最期を遂げた…というのが通説。

歴史の教科書に載るほどに綺麗にまとまった事件。

それだけに、逆に言いたい。

「ねえ、それって誰が見たの?」

本能寺は燃えました。

火の手はすごかった。

焼け落ちる音も、夜空に広がる煙も、京都中の町人たちが見ていたはず。

でも――あれだけの騒ぎのわりに、「信長の遺体、ここにありました」という記録は一切出てきません。

ないんです。

ゼロ。

焼け跡に何も残ってなかったんですって。

刀も甲冑も、骨すらも。

じゃあ、どうして「信長は死んだ」って全国が知ってたのかって?

それがまた不思議な話でして。

事件のわずか2日後、越後の上杉家では「信長、討死候」と家中にお触れが出されているんです。

早すぎませんか?

今のLINEより早い情報伝達。

そしてその情報がどこから来たかは……誰も知らない。

ちなみに当時、本能寺に踏み込んだ明智軍の雑兵の話がいくつか残っています。

曰く「中に入ったら、床が掃き清められていて、誰もいなかった」。

掃除してから焼いたの? 誰が? なぜ? まるで“逃走後に証拠隠滅した現場”か、あるいは“誰もいなかった舞台”のよう。

信長がそこに本当にいたのかどうか、それすら疑いたくなる始末です。

こうなると、探偵の血が騒ぎますよね。

死体がない、証人がいない、現場は完全に消失。

なのに、なぜか「犯人」と「被害者」がはっきりしている。

これはもう、現代の警察だったら立件無理案件です。

火災の原因調査すら終わってないのに、世間の結論は“信長、あっさり死亡”ですから。

しかも、「是非もなし」なんて格好いい遺言まで残して。

ほんとに言ったんでしょうか、それ。

だって燃え盛る寺の中で、誰がそれを聞いたの?

あれって後に流行った「無常感ある武士の最期」テンプレにしか見えません。

いや、言ったかもしれませんよ?

でも、台詞にしては完成度高すぎじゃない?

こうして、私たちは“誰も見てないのに、皆が知ってる”という事件を前にしています。

しかも、情報の出どころは、あとで天下を取った人たち。

火の手から逃げた家康、何もかもが早すぎる秀吉――後で出てきますけどね、なんか…おかしいですよね?

さあ、談話室の皆さん、ここまで聞いてどう思われます?

「これは不審ですな」とおっしゃる方、「ああ、そういうことだったのか」と深くうなずく方。

きっといらっしゃるでしょう。

いずれにせよ、現場を見てない我々探偵団には、これからさらに踏み込んだ調査が必要のようです🩷――。

第2章…光秀だけじゃない犯人はどこにでもいるのかもしれない


明智光秀と聞けば、「ああ、裏切った人ね」と多くの人が答えるでしょう。

もう、日本史界の“定番裏切りキャラ”です。

けれど、本当に光秀だけが犯人なのでしょうか?

これがもし推理小説だったら――そう簡単には終わりませんよね。

そもそも、「敵は本能寺にあり」と光秀が言ったかどうかも怪しいんです。

あれ、後世の創作という説があるんですよ。

もしかしたら彼、そんなポエミーなセリフなんか言わずに「今から行くぞー」くらいの感じだったかもしれません。

それに、光秀の行動には“急すぎる”って言われることが多い。

出発から本能寺襲撃まで、ほとんど一筆書きで突っ走ってるんですよね。

誰かに「今がチャンス」って耳打ちされたんじゃないの?

そういう雰囲気、ぷんぷんします。

そして注目すべきは、あの人――羽柴秀吉。

何がって、「中国大返し」のスピードです。

早い。

とにかく早い。

光秀の行動が“異常な決断力”なら、秀吉は“異常な帰還力”です。

地図を見てもらうと分かるんですが、備中高松から京都まで、あの時代に数日で駆け戻るって、もう脚にジェットエンジンでも付いてたんじゃないかってくらいなんです。

どう考えても「準備してました」としか思えない。

しかも、その途中で「信長様はご無事」と言いふらしてたって話まである。

これ、つまり「信長が死んだ」と信じて動いたわけじゃない。

むしろ“信長生存説”を巧妙に利用して、他大名の動きを止めておいたってわけです。

さらにあの家康。

そう、三河の狸。

事件発生時、堺に滞在していた彼は、すぐさま京を脱出。

あの有名な“伊賀越え”の逃避行ですよね。

護衛も少なく、敵地だらけの中を突っ切って命からがら帰国。

いや、これ、冷静に考えて「生きて帰れる方が不自然」じゃありませんか?

誰も家康を襲わない。

忍者は出てくる。

地元民は親切。

まるで“通行手形”でももらってたかのようなスムーズさです。

おかしいなあ~って思いません?

ちなみに、そのとき同行していた家康の家臣たちは、後に「お話しできません」とか「記憶にございません」的な態度だったそうです。

これ、現代だったら記者会見で袋叩き案件ですよ。

「あの時、誰と接触しましたか?」「どのルートを通りましたか?」――答えられない。

あるいは、答えたくない。

つまり、これはもう“情報統制”が働いていた可能性、大なんです。

さらに都市伝説レベルの話を混ぜると、光秀と家康、実は手を組んでいた説まであるんですよ。

だって、光秀が織田家中で唯一、家康と人間関係があった人物なんですから。

しかも、信長は家康を軽視していた節があって、それを聞いた光秀が「ならばワシが…」となったという“義の裏切り”説も。

うーん、義理深いのか策士なのか、よく分かりません。

でも、そんな光秀が天下を取れなかったのもまた謎なんです。

だって、事件直後、何をやったかといえば「朝廷工作」。

時の帝に取り入って官位をもらおうとしたり、貴族にお中元配ったりしてるんです。

あのバタバタの中で、ですよ?

これはこれでちょっと…ズレてませんか?

そして、それを裏から見てたであろう秀吉は、あっという間に“正義の討伐軍”として京に登場。

山崎の戦いでは、光秀軍の士気がガタガタだったとも言われますが、たぶん皆「おや?これ、空気的にヤバくない?」って思ったんでしょうね。

三日天下というのも、結果としては“一度失敗した世界線”のようなもの。

ある意味、光秀は「先に手を出しすぎた」か、「独りで動かされた」か、どちらかだったのかもしれません。

さあ、犯人は本当に光秀だけなのか?

一人で信長を消せるほど、あの時代の権力構造は甘かったのか?

そして、誰が、いつ、どこで、何を知っていたのか――それを語れる者がいない今、残るのは我々探偵団の想像力だけです🩷。

談話室の名探偵の皆さん、ここまでの謎を整理してみてください。

「光秀は犯人だけど、主犯じゃない」とか、「秀吉が全てを操っていた」とか、「家康?あの人こそ黒幕!」という展開も、大歓迎です。

誰かが口にした瞬間、真実がひとつ、また浮かび上がってくるかもしれませんよ――。

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第3章…逃げたのか消えたのか最初からいなかったのか


さて、遺体がない。

しかも、火災のあとに床が掃き清められていたって、どういうことなんでしょう?

あの日、本能寺は火に包まれました。

けれど、その火の中で何が起きたのかは誰も知らない。

いや、誰も“見ていない”のです。

まず確認したいのが、「信長の死体、誰が見たの?」って話です。

答えは、誰も見ていない。

焼け跡を調べても、何かの燃えカスらしきものは出てくるけど、「これが信長です」と言えるものは何一つない。

つまり、「信長はあの日、本能寺で焼死した」というのは、状況証拠だけの断定なんです。

現代の刑事ドラマなら即ボツ、控えめに言って“捜査打ち切り案件”。

しかもですよ、その日、本能寺にいたとされる人たちも、なぜかみんなバラバラに討ち死にしていて、証言者が一人もいない。

さらに奇妙なのが、現場に突入した明智軍の兵士が語ったとされる言葉です――

「寺の中は静かで、床が掃き清められ、まるで誰かを迎える準備が整っていたようだった」

これ…火災直後の光景とは思えないほどの整然ぶり。

まるで、信長が誰かを待っていたのか、それともすでに誰かに送り出された後だったのか。

そういえば、信長って妙に“逃げ足”が速いことで有名だったんですよね。

桶狭間では少数で出て敵の本陣に突撃、比叡山焼き討ちでも不意を突いて大勝。

冷静に見て、“計画性”と“逃走力”のハイブリッドみたいな人です。

そんな人が、ほぼ無警戒で京都ど真ん中にぽつんと滞在?しかも、息子の信忠も同日に同時討ち…?

これ、ちょっとした“自作自演”や“強制幕引き”を疑いたくもなります。

さらに、「影武者説」もあるんですよ。

あの日本能寺で燃えたのは、本物じゃなくて“影”。

信長はその前日か前々日に、そっと京を離れていた――という説も、江戸時代の逸話集にしれっと出てきます。

あなどれませんよ、江戸の人たちの想像力。

そして、最大の妄想ロマンがこちら――

「信長は生き延びて、南蛮船で国外脱出した説」!

これはもう、夢しかありません。舞台はマカオ?マニラ?それとも長崎からこっそり脱出?

有名な宣教師ルイス・フロイスやオルガンティノらとの南蛮ルートを利用して、「ジパングの王は世界に旅立った」なんて、まるで時代劇スペシャルです。

実際、江戸時代には“信長っぽい人物がヨーロッパで処刑された”という都市伝説もあったりして、探偵の脳内は大忙し。

そういえば、宮崎県のとある豪族の日記に「信長らしき人物が来た」って記述も残っているんですよ。

場所も年代も、な〜んとなく一致する。これはもう…ご本人登場だったのか?

いやはや、こうなると信長は“消された”のではなく、“消えることを選んだ”のでは?という推理にたどり着きます。

だってね、誰よりも先を読んで、誰よりも速く動いていた男が、まさか光秀ごときに背後を取られるなんて、ありえないと思いませんか?

この事件、もしかすると――

「信長は、舞台から下りるために、自ら“死”という幕を引いた」

そんな脚本すら、あり得てしまうのです。

談話室で話すにはピッタリのネタじゃないですか?

利用者さんの中に「いや、信長は東南アジアでビジネスしてたらしいよ」なんて人が現れたら、もう拍手喝采。

皆で地球儀を広げながら、「このあたりに信長がいたかも」なんて推理を披露すれば、談話室が一気に“戦国ミステリー喫茶”に早変わりです。

さて、信長はどこに消えたのか?そして誰がそれを仕組んだのか?

この事件の真相は、いよいよ国家規模の“情報戦”へと広がっていくのです🩷――。

第4章…江戸に向かう者と夢を捨てる者と世界を見ていた者と


本能寺が燃えたあと、地図を広げると実に興味深いルートが二本浮かび上がるんです。

ひとつは、秀吉が突っ走った西から東への“超光速ルート”。

もうひとつは、家康が命からがら逃げ帰った“忍者だらけの伊賀越えルート”。

まずは秀吉。

備中高松から山崎までの怒涛の帰還。

言わずと知れた「中国大返し」。

このスピード、もう尋常じゃないんです。

当時の足軽がビックリして転びそうになるくらい速い。

それもそのはず、彼、光秀の謀反のことをあたかも事前に知ってたみたいな動き方をしてるんですよ。

途中で「信長様はご無事」と流しながら進軍してたとか、冷静に考えて“味方も欺いてる”んです。

これ、現代だったらSNSで大炎上してます。

「フェイクニュースで支持を集めてる」って。

そしてもう一本のルート。

こちらもまた名物となっている「神君伊賀越え」。

主役は徳川家康。

そして同行していたのが、あの**穴山梅雪(武田信玄の従兄弟)**です。

この人、なんと信長から駿河を与えられる約束をされていた。

ところが、家康と別行動を取って静岡方面に向かう最中――不審な死を遂げます。

ねえ、これって偶然?

家康は敵だらけの伊賀を「命からがら」通って生還。

穴山さんは“比較的安全そうな道”で討ち死に。

家康、無事に生き残る。

穴山、駿河と一緒にこの世を退場。

この結果だけ見ると、まるで「権力の精密シナリオ」じゃありません?

伊賀越え自体も怪しさ満点。

忍者が護衛してくれた、地元民が助けてくれた、敵も襲ってこなかった。

ちょっと都合が良すぎませんか?まるで伊賀の地そのものが「家康様お通りです」とばかりに道を開けてくれたようなスムーズさ。

現代に例えるなら、関係者しか通れないVIPルートを使って、渋滞なし、検問スルーでスイスイ帰宅してる感じです。

それでいて、後日残された記録では「危険だった」「感動の逃走劇」「皆が涙した」という言葉のオンパレード。

いや、泣いたのは物語を読まされたこっちですよ。

さらに一部家臣が“命を落とした”という話もあるのに、その内訳がふんわりしているのも不思議なんですよね。

「誰が」「どこで」「どうやってやられたか」――それがはっきりしない。

なんだかこの一連の話、歴史というより脚本に近いんですよ。

一方で、秀吉は大返しを終えて、信長を討った光秀をパッと潰して「正義の執行者」に成り上がる。

信長を失って混乱した空気を読んで、ちゃっかり“新しいルール”を作り始める。

武力よりも情報戦とスピード感で、気づけば一歩先へ。

「これからはルールを変えた者勝ちですよ」とでも言いたげな立ち回り。

誰よりも先に天下を“取るのではなく、用意していた”かのような。

そのころ家康はどうしていたかといえば――待ってたんですよ。

何もしない、動かない、耐える。

秀吉が死ぬのをじーっと見て、ようやく自分のターン。

そして関ヶ原を制して、江戸に幕府を開く。

このとき家康の胸にはこう書かれていたかもしれません。

「勝つまで待てば、勝ちは来る」と。

でもその江戸幕府が始まったことで、日本は一気に内向きモードに。

あれだけ南蛮文化に興味津々だった信長が見たら、涙目になるような「静かな国」へ変わっていくんです。

夢を追って燃えた本能寺から、ルールと忍耐の江戸へ。

たしかに“得をした人”はいたけれど、“何かが失われた”という感覚も、残りますよね。

本能寺の変、それは単なるクーデターではありませんでした。

誰が死んで、誰が生きて、誰が語って、誰が得をしたのか。

それを追っていくと、目の前に浮かび上がるのは、一つの脚本と、それに従って動いた名優たちの姿。

果たして、その脚本家は誰だったのか――

名探偵の皆さん、談話室での推理タイムの始まりですよ🩷。

第5章…スペインとイギリスと…地球の裏でも情報戦が始まっていた


信長が消えたあの年、世界では何が起きていたのか?

実は、日本があたふたしていたその背後で、もっと巨大な“火種”が燃えていたんです。

それが、スペインとイギリスの冷戦…いや、熱戦前夜。

あの1582年、まさに本能寺の変が起きた頃。

ヨーロッパではスペインが絶好調。無敵艦隊と呼ばれるほどの海軍力を誇り、南米の銀をがっぽり運び、アジアにも触手を伸ばしていました。

フィリピンのマニラを完全に拠点化。マニラ・ガレオン貿易という金と銀のスーパー道路を東西に開通。

マカオにも進出、インドネシアにもチラ見…あれ?

これってもうアジアの交通整理、始めてたってことじゃん!

一方で、そのスペインをぶっ潰したい!と願っていたのがイギリスです。

まだ産業革命も起きてないこの時代、イギリスは「やる気と海賊魂」だけで勝負してたような国。

そんな彼らがスペインの裏をかこうとして、情報収集に全力をかけていたって言われています。

で、アジアに目を向けたとき、見えたのが――そう、信長のいる日本だったんです。

織田信長といえば南蛮大好き、宣教師ウェルカム、火縄銃ドーン、南蛮カルチャー爆吸収の人。

しかもフロイスとの関係も良好。

イエズス会やオルガンティノらと密に交わり、キリスト教文化も武力もセットで採用。

もはやこれは、“カトリック側から見れば最高のパートナー”だったわけです。

でも、その信長が本能寺で燃えた。

焼けた。

消えた。

で、「死んだらしい」と言われてるけど、遺体はない。

これを聞いた世界のスパイたち、どう思ったと思います?

――「それ、フェイクかもしれん」

はい、信長死亡フェイク説、世界初の“国際ミステリー”として爆誕です。

そもそも当時、日本は“黄金の国ジパング”として世界中に伝説化されていました。

石見銀山の銀、九州の銅、瀬戸内の海賊技術、何より「交易に寛容」という魅力的すぎる性格。

そこにいた信長がもし生き延びて、どこかの南蛮船で海外へ――

これ、もし本当にあったとしたら、マニラで目撃されてたかもしれませんよね?

しかも、江戸時代になってからの記録には、「東南アジアで“日本の王族らしき人物”が処刑された」といった妙な記述が登場することも。

いやいや、ちょっと待って?本当に信長って、脱出して、マニラあたりで「第2の人生」送ってたんじゃ…?

情報操作が武器のイギリスなら、「死んだことにして動いてくれるなら、それもまた好都合」と思っていたかも。

さらに台湾。

ここは当時、オランダとスペインが血で血を洗う奪い合い中。

南からはマカオ、北からは清国船、そこに突然「倭人」と呼ばれる日本人武装商人たちが現れていたんです。

なんとその中に、信長の部下や配下にルーツを持つ人間がいたという記録まで。

一方で、琉球はと言えば、ちょっと遅れて1609年に薩摩に“占拠”され、結果的に中国と日本の両属に。

これまた情報戦の舞台。

つまり、この海の上では、日本列島よりもはるかに速く、世界の“パワーゲーム”が始まっていたんです。

もし、信長がそこにいたら?

もし、彼が“表舞台を降りた”のではなく、“表を捨てて裏に回った”としたら?

それこそが、日本史が国家スケールで隠している最大のタブー――

談話室の名探偵の皆さま。

歴史の本に載っていない“海の向こうの信長”を語る時が来ました。

信じるも信じないも、事実がないからこそ、語る価値があるんです。

それが、“火の中に消えた男”が、いまもどこかで見ている夢の続きなのかもしれません🩷。


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まとめ…談話室であなたの“推理”を披露してみませんか?


さて、ここまでくると、もはや「信長は死んだ」という常識そのものが一番怪しく思えてきます。

誰も死体を見ていない。

現場はきれいに掃除されていた。

遺言も怪しい。

明智光秀は動機がフワッとしてるし、秀吉は速すぎるし、家康は道を選びすぎ。

そして海外ではスペインとイギリスが火花を散らし、日本の未来を静かに“観察”していた――。

これ、普通の事件じゃありません。

本能寺の変は、“燃えた”のではなく、“焚きつけられた”何かだったのでは?

誰かが消え、誰かが笑い、誰かが夢を見て、そしてその夢はいつしか“歴史”と呼ばれるようになった。

でも、歴史というのはとても人間くさい。

得をした者が語り、損をした者は忘れ去られる。

史実とは、記録ではなく“物語の選別”なのかもしれません。

それならば私たちは、物語の“裏側”を読むことで、本当の人間ドラマを探すべきではないでしょうか。

信長が本当に生きていたのか?

いや、もうそれは問題じゃないのかもしれません。

夢の続きを信じて、“そうだったらいいのに”と思う心こそが、

あの時代の熱や涙、煙や剣戟を現代へ運んでくれているんです。

だから今日、7月1日。

ぜひ施設の談話室で話してみてください。

「信長って、本当に死んでたと思う?」

「光秀って、実は正義の人だったんじゃない?」

「家康って…意外と腹黒かったのよ」

そんな一言が、きっとおじいちゃんおばあちゃんの目をキラリとさせてくれるはずです。

話して、笑って、妄想して、また笑って。

その中に眠っている記憶や知恵、そして“語り継ぐべき何か”が蘇るかもしれません。

そう――歴史とは、火の中に埋もれた宝探し。

そして語ることこそが、私たち探偵たちの最大の武器なのです。

さあ、探偵たちよ、事件はまだ終わっていない。

談話室のテーブルが、今日だけは本能寺になるかもしれません――🩷。

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