久しぶりの芸能ニュースに心がざわついた日~叩く社会と見つめ直したい節度の話~

[ その他・雑記 ]

はじめに…画面の向こうが騒がしい日に、胸の中で立ち止まりたくなること

人を責める声が大きくなるほど、こちらは少しだけ深呼吸をしたくなります。賑やかな芸能ニュースを見ているはずなのに、胸の中に残るのが華やかさよりも息苦しさだとしたら、それはきっと気のせいではありません。正しいことを言っているようでいて、いつの間にか一刀両断の空気になり、画面の向こうにいる誰かの逃げ道まで塞いでしまう。そんな場面に出会うと、見ている側まで肩が凝るのです。

テレビをつけたら、朝のコーヒーより先に強い言葉が流れ込んでくる日があります。あれこれ並べて、ここが悪い、あそこも悪い、と話が広がっていくうちに、気づけば出来事そのものより“責め方”の方が目立ってしまう。いやいや、そこまで焦げ目をあちこちにつけなくても……と、トースト相手でもないのに心の中でつっこんでしまいます。こういう同調圧力(その場の空気に合わせようとする力)が広がると、正しさは便利な看板になれても、優しさは置いていかれがちです。

もちろん、してはいけないことはあります。節度も責任も大切です。ただ、誰かの過ちを見つけた瞬間に、社会全体が満場一致で石を持つような流れは、どこか不穏です。百家争鳴のように多くの声が飛び交う時代だからこそ、声の大きさより、言葉の温度を見ていたい。そんな気持ちが、ふと芽生えます。

人は失敗をしない置き物ではなく、迷いながら生きる生身の存在です。だからこそ、出来事を見つめる目にも礼儀がいるのだと思います。厳しさだけで社会が整うなら、世の中はとっくに優等生だらけです。でも実際は、そんなに綺麗にはいきません。ならばせめて、誰かを見送る言葉を駆使するより、立ち直る余白を残す言葉を少し多めにしたいものです。と、そんなことを考えながら、今日も賑やかな画面を、少し離れて見ています。

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第1章…正論が渋滞する時~人を追い込む空気の怖さ~

朝の支度をしながらテレビをつけたら、天気予報より先に誰かを責める声が流れてくる。そんな日は、まだ飲み切っていないお茶まで少し苦く感じます。正しいことを言っているはずなのに、見ているうちに胸の辺りが重たくなるのは、言葉が正しいかどうかだけではなく、向け方にも温度があるからでしょう。快刀乱麻のつもりで話していても、受け取る側には刃物のように刺さることがあります。

芸能ニュースが過熱すると、出来事そのものよりも、責め方の競争になりやすいものです。コメンテーターが次々に並び、過去の発言や行動まで広げて、「ここも問題」「あちらも問題」と積み上げていく。見ている側も、いつの間にか品定めの席に座らされてしまう。いやいや、私は朝ご飯を食べたいだけなんですけど、と心の中で小さくつっこんでしまいます。けれど、その“みんなで言う空気”こそが、じわじわと人を追い込むのです。

同調圧力(その場の空気に合わせようとする力)は、目に見えないのに厄介です。誰かが厳しい言葉を出すと、次の人はそれより少しきつい言い方をしないと存在感が出し難い。すると話は雪だるまのように膨らみ、気づけば満場一致で「もう立ち直れなくても仕方ないよね?」という顔触れになってしまう。そこまで行くと、正論は交通整理ではなく渋滞です。前にも後ろにも進めず、ただ苦しさだけが残ります。

もちろん、してはいけないことはあります。責任を問うことも必要です。ただ、節度まで一緒に脱ぎ捨ててしまうと、社会はたちまち物騒になります。電車の中で誰かがマナー違反をしていたとして、車両中の全員が立ち上がって説教を始めたら、違和感しかありませんよね。注意は必要でも、袋叩きまで育ててしまうと、見ている人の心まで荒れていきます。そこにあるのは公明正大というより、感情の行列です。

人は失敗をした瞬間に、人生の全ページが真っ黒になるわけではありません。良かった日も、努力した時間も、誰かを助けた場面も、ちゃんとあったはずです。それでも騒ぎの中では、その人が“失敗しただけ人”の一枚札だけで扱われやすい。そんな単純化は見やすいけれど、あまりに窮屈です。人の人生は、テレビの字幕ほど短くはありません。

大勢の責める側に立つと、自分は安全な場所にいるような気持ちになります。けれど、口調が熱くなり過ぎた時こそ要注意なのです。冷静沈着でいたつもりが、ふと鏡を見たら眉間にシワ、醜悪なお顔なんてこともある。正しさを語る時ほど、顔つきだけは優しくしておきたいものです。社会を整える言葉は必要です。でも、人の逃げ道を全部塞いでしまう言葉まで拍手される空気には、少しだけ距離を取りたくなります。優しさは甘さではなく、社会が息切れしないための余白なのだと思います。


第2章…失敗は消えずに功績は薄れる~華やかな世界の不均衡~

拍手に包まれていた人が、ある日を境に急に厳しい目線ばかり向けられる。芸能の世界を見ていると、この振れ幅の大きさに驚かされます。昨日まで「凄い!」「流石!」と言われていた人が、今日は反対向きの見出しで語られる。栄枯盛衰という言葉は昔からありますが、今の時代はその回転が早過ぎて、見ている側の首まで少し痛くなりそうです。

人気商売では、評価そのものが仕事の土台になります。応援されるほど活動の場は広がり、逆風が吹くと一気に足場がぐらつく。これは市場原理(人の支持や関心で価値が動く仕組み)とも言えますが、理屈だけでは片付かない切なさがあります。失敗に注目が集まると、それまで積み上げた努力や功績まで、まるで棚の奥に押し込まれたように見え難くなるのです。人の歩みはこれから先もまだまだ長いのに、評価は短距離走みたいだなぁと感じます。

しかも不思議なのは、同じような躓きでも、立場や知名度や周囲の守られ方で、受ける打撃が随分と変わることです。厳しく追われる人もいれば、いつの間にか何事もなかったように舞台へ戻っている人もいる。歴史に失敗で名を刻んだ人ですら復活する。この差を見るたびに、公平って難しいもんだなぁと首を傾げます。いや、首を傾げ過ぎると寝違えそうなくら傾げられそうですが、本当にそこなんです。世の中はいつも同じ物差しで測られているわけではありません。

こうした見え方には、フレーミング(切り取り方で印象が変わること)が大きく関わっています。ある出来事をどの角度から映すかで、受け手の印象はかなり変わるものです。失敗だけを大写しにすれば、その人は“失敗の人”になる。功績や人柄や過去の働きまで一緒に映せば、見え方はもう少し立体的になるはずです。人間は白か黒かで分けきれるほど単純ではなく、明暗両面を抱えながら生きています。そこを丸ごと忘れてしまうと、見やすさと引き換えに、大事な何かの厚みがこぼれ落ちてしまいます。

誰にでも、言いたくない失敗や、思い出すと布団に潜りたくなる夜があります。芸能人だけが特別に弱いわけでも、特別に乱れているわけでもありません。ただ、人目に触れる場所に立っている分、傷まで照明が当たりやすいのでしょう。まるで舞台のセンターに落とした消しゴムだけ、客席全員に見つかるようなものです。いや、教室なら「はい拾って」で終わるのですが、そう簡単に終わらないのがつらいところです。

人の失敗を見る時に大切なのは、責任をぼかすことではなく、評価を単線にしないことだと思います。良くないことは良くない。それでも、その人の人生全部を一枚札にしない。この視点があるだけで、見方はかなり変わります。功績を忘れず、失敗も軽く扱わず、どちらも抱えたまま見つめる。その方が、社会は少し落ち着いて呼吸できます。厳しさだけでなく、やり直す余白まで残せる目線を持てたら、画面の向こうの世界も、今より少しだけ人間らしく見えてくるはずです。

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第3章…公平正当は難しい~それでも礼節を手放さないために~

人のことを見て「それはどうなのかな?」と感じる場面は、誰にでもあります。テレビの中でも、職場でも、近所の噂話でも、胸の中に小さな判定ボタンが勝手に出てくる。いや、そんな便利な機械は持っていないはずなのに、気づくと心の親指が上がったり下がったりしているのです。人を見る目を持つことは大切ですが、その目付きまで険しくなってしまうと、空気はたちまち乾いてしまいます。

公平正当という言葉は、聞こえはとても立派です。けれど実際の暮らしの中では、これがなかなか骨が折れます。好きな人には甘くなり、苦手な人には厳しくなり、肩書きのある人には遠慮し、反論し難そうな人にはずけずけ言ってしまう。人間らしいと言えばそうなのですが、そこに無自覚でいると、知らないうちに不公平の片棒を担いでしまいます。明鏡止水のように静かで澄んだ心を保てたら理想ですが、そんな日は冷蔵庫のプリンを家族に残せた日くらい貴重かもしれません。

特に誰かが失敗した時、その人を「問題を起こした人」という一枚の札で見てしまうと、話は早い代わりに浅くなります。人には、良い日もあれば、情けない日もある。親切だった日も、判断を誤る日もある。その全部を抱えて生きているのに、1つの出来事だけで人物像を決めきってしまうのは、少し窮屈です。レッテル貼り(相手を短い言葉で決めつけること)は、と~っても手軽ですが、手軽なものほど取り扱い注意です。うっかりすると、自分の見方まで貧しくしてしまいます。

礼節というのは、相手を甘やかすための飾りではありません。厳しいことを言う時ほど、必要になる土台です。良くないことを良くないと言う、その姿勢は大事です。ただ、必要以上に刺すような言い方をしない、逃げ場を全部塞がない、人格まで丸ごと否定しない。この辺りを守るだけで、言葉の景色はかなり変わります。厳しさと乱暴さは似て見えて、実は別ものです。

世の中には、体が不自由な人も、思うように働けない人も、遠回りしながら生きている人もいます。それでも、誰かの存在が丸ごと無意味になることはありません。この感覚を持っていると、人への向き合い方に少し余白が生まれます。人は役に立つかどうかだけで並ぶ棚の商品ではなく、それぞれの事情と時間を抱えた生活者です。その見方があると、責める言葉より、整える言葉を選びやすくなります。

人を見る時に必要なのは、完璧な判定ではなく、ほど良い節度なのだと思います。白黒を急ぎ過ぎず、善悪をぼかし過ぎず、礼儀を忘れない。そのくらいの歩幅が、社会にはちょうど良いのかもしれません。口より先に感情が走りそうな日は、ひと呼吸おいて、お茶でも啜ってから考える。湯気の向こうで気持ちが少し整うこともあります。人に向ける言葉は、鏡のようにこちらの品まで映します。ならばせめて、見た目だけでも、いや中身ごと、穏やかでありたいものです。


第4章…記録が残る時代の息苦しさ~やり直す余白はどこにあるのか?~

今の時代は、出来事そのものより、「残り方」の方が怖いのかもしれません。昔ならその場で萎んでいった失敗が、今は長く居座ることがあります。時間が経てば少しずつ薄れていくはずの出来事が、ある日ふいにまた持ち出される。人の記憶は柔らかいのに、記録は妙にしっかり者です。いや、そこは少し忘れてくれても良いのに、と言いたくなる場面もあります。

記録には一長一短があります。正確さを保ち、言った言わないを減らし、後から確かめられる。これは暮らしにも仕事にも欠かせません。医療や介護の現場でも、記録は大事な土台になります。アセスメント(相手の状態や背景を整理して見立てること)や経過の記録があるから、支援は繋がっていくのです。けれど同じ「残る」でも、人が立ち直るための時間まで固定してしまう残り方には、少し息苦しさがあります。

芸能の世界は、その息苦しさが特に見えやすい場所です。何年も前の出来事が、再び活動しようとした瞬間に引っ張り出される。本人は別の景色を見ようとしていても、周りが「はい、こちら過去です」と差し出してくる。まるで押し入れの奥にしまった冬物を探していたら、昔の失敗だけきっちり畳まれて出てくるようなものです。そこまで整理整頓が行き届かなくても良いのですが、記録の棚はどうも几帳面です。

こういう状態は、デジタルタトゥー(消えにくい記録の痕跡)という言葉で語られることもあります。消したつもりでも残り、離れたつもりでも追いかけてくる。便利さの裏側にあるこの性質は、社会の記憶力が上がったというより、忘れる力が弱くなった姿にも見えます。忘れないことは立派に聞こえますが、人がやり直すには、少し忘れてもらえる空気も必要なのかもしれません。何でもかんでも永久保存では、心が先に満員になります。

人は失敗しない機械ではありません。間違えた後にどう直すか?どう生き直すか?その時間にこそ人らしさがあります。…なのに、過去だけが何度も前に出てくると、現在の努力や変化が見え難くなる。禊が済むと言いますが、これでは更生や再出発という言葉が、看板だけ立派で中身のないものになってしまいます。社会に必要なのは、記録を消すことではなく、記録だけで人を決め切らない目線かもしれません。寛容さというと少し身構えますが、要するに「昨日だけで今日を決めない」感覚です。

失敗を軽く扱わないことと、やり直す余白を残すことは、両立できます。責任は問う。でも、未来のドアまで全部閉めない。そのくらいのバランス感覚があれば、記録は人を縛る鎖ではなく、学びの跡として働きます。日進月歩の時代に、失敗だけがその場で止まったままなのは、少し寂しい話です。人が前に進むなら、見る側の目線も少しずつ前へ動きたいものですね。

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まとめ…人を裁く前に深呼吸~優しい目線が社会を少しだけ救う~

にぎやかなニュースを見るたびに、世の中は正しさだけで回っているわけではないのだと感じます。正しい言葉は大切です。それでも、言い方1つで誰かの明日を狭くしてしまうことがある。そんな場面を思うと、こちらまで少し背筋を直したくなります。厳しさを持ちながらも礼を失わないこと、その匙加減こそが大人の品格なのかもしれません。

人は誰でも、失敗する日があります。見られる場所が大きい人は、その失敗が目立ちやすいだけで、生身の人間であることは変わりません。功績も過ちも、どちらか片方だけで語り切れないのが人生です。そう思うと、誰かを見つめる目線も少し和らぎます。寛容さは放任ではなく、相手を人として扱うための余白です。

それに、記録が長く残る時代ほど、忘れない力だけでなく、やり直しを見守る力も要ります。過去を消すことは出来なくても、未来まで閉じる必要はありません。七転八起という言葉が今も残っているのは、人が転ばない存在ではなく、立ち上がりながら生きる存在だからでしょう。失敗のない人を探すより、立ち直ろうとする人をきちんと見られる社会の方が、ずっと呼吸しやすい気がします。

ことわざに「人を呪わば穴二つ」とあります。人を責める言葉は、時に相手だけでなく、自分の心まで荒らしてしまいます。だったら、画面の向こうの出来事に出会った時こそ、ほんの少し深呼吸をして、お顔と言葉の温度を見てみたいものです。冷静沈着でいられた日は、それだけで小さな勝利です。いや、拍手まではいりませんが、帰り道の足取りが少し軽くなるくらいのご褒美は、きっとどこかであるはずです。

世の中は今日も忙しく、話題は次から次へと移り変わります。その中で、誰かを断ち切る視線より、立ち直る余白を残す視線を持てたなら、それはとても温かな知恵です。優しさは甘さではなく、社会が息切れしないための工夫なのだと思います。明日また何かのニュースが流れてきても、心まで一緒に荒波に乗せず、静かな目線を1つ持っていたいものですね。

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今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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