春をもう一度!寝たきりから始める“軽やか”な毎日

目次
はじめに…痩せるためじゃない!心と身体をほぐすために
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あの人の口元には、いつも少し照れたような笑みがあった。
スプーンをそっと差し出すと、かすかに首を傾け、目だけで「うれしい」と伝えてくれた。
寝たきりではあったけれど、食べることが大好きだった。
甘辛い煮豆が好きで、家族が持ってくる手づくりのおかずには、特別な表情を浮かべていた。
けれど、ある日を境に、それらがすべて消えた。
「重いから」「風呂が大変だから」「おむつ交換の負担が増えるから」
そんな理由で、ケアプランに“ダイエット”が組み込まれた。
言葉はやさしいのに、なぜだろう。
胸がとても冷たくなった。
おかずは減り、ごはんも小さな茶碗にひと口だけ。
ご家族の差し入れも「ご遠慮ください」と止められた。
あの人は、もう笑わなくなった。
その口元には、食べ物ではなく沈黙が運ばれるようになっていった。
それが、本当に“健康”だったのだろうか。
軽くなったのは、体ではなく、生きる気持ちだったのではないだろうか。
あれから、私はずっと考えている。
「痩せること」は、本当に“ケア”なのか。
もしも体が重たいなら、それを少しでも軽くしてあげたい。
でもそれは、数字を減らすことではなくて、
心や身体のこわばりを、少しずつ“ほぐす”ことなんじゃないか――そう思うのです。
春が来ました。
風がやさしく吹いて、光がまぶしくて、木々が芽吹くこの季節。
もう一度、やさしい“整え方🩷”を考えてみませんか?
ベッドの上にいる時間が長くても、気持ちが軽くなることはできる。
それは、誰かの都合のためじゃなくて、自分のために。
今日を心地よく過ごすために。
この春、小さくてあたたかい、やさしい革命を始めてみましょう。
第1章 体重ではなく“重さ”に気づく日
朝の光が、カーテンのすき間からやわらかく射し込む。
あの人は、目を閉じたまま、ほんの少し眉をひそめた。
「今日は、ちょっと重たいな」
そうつぶやくような気配が、そっと空気を揺らした。
体重計には、もう長く乗っていない。
けれど、体は知っている。
手を伸ばそうとしたとき、肩がこわばっていることに。
背中を少し起こしただけで、足の先がジンとしびれることに。
顔を洗ってもらうとき、首のつけ根がどこか詰まっているようなことに。
「数字」は測れなくても、「感覚」はいつもそこにある。
それは、体の声。小さくて、でも確かに届いてくる言葉たち。
――昔はもっと軽かった。
そう言って、あの人は、あるときふと笑った。
「体が、じゃないよ。気持ちが、だよ」って。
春になると庭の椿が咲いて、それを見に縁側に出るのが楽しみだったと。
今はもう椿を見に行けないけど、窓越しに見える光で、それを思い出せる。
それだけでも、少し気持ちは軽くなるんだよって。
私たちはつい、「体重が何キロだから重い」と言いたくなる。
でもあの人は、「このところ、夜が浅くて眠れなくてね」と言った。
「胸のあたりが、ふわっと息が入らない日があるんだ」とも。
その“重さ📌”こそが、本当にケアされるべきものだったのだと思う。
春の朝は、少しずつ体を起こしてくれる。
まだ冬の寒さが名残のように残る毛布の中、そっと手を動かしてみる。
足の指をちょっとだけ曲げてみる。
その小さな「できた」が、重さを少し、やわらげていく。
ベッドの上でも、季節は流れる。
動けない場所にいても、体は静かに感じている。
重さの中にある小さな“ほぐれ”に気づくことができたら、
その日1日は、ほんのすこしだけ、違って見えてくる。
数字ではなく、今日の自分の声に耳をすませる。
それが、整えなおす春の第一歩。
第2章 食べることは生きること
その方の口は、いつだって静かだった。
けれど、スプーンの音が近づくたび、ほんのすこし唇が動いた。
目を閉じていても、そのひと口を心待ちにしていたのが分かった。
あれは、ごはんの時間だけが、日々のなかで“自分が自分でいられる時間”だったのかもしれない。
以前、ご家族が炊き込みごはんを差し入れてくれたことがあった。
小さなパックのなかには、ひじきと人参、少しの油揚げが彩りよく混ざっていて、
その方は、スプーンをそっと口元に持っていき、一口食べると、目を閉じて静かに笑った。
「ああ、これ、子どものころ母がよく作ってくれたなあ」
その声は、どこか遠い春の記憶をなぞっているようだった。
けれど、その差し入れは、すぐに“不要”とされた。
「食べ過ぎになるから」「カロリーが高いから」「健康のために」
――そう書かれた掲示メモが、ナースステーションの片隅に貼られていた。
「健康のために」
それは、時に鋭い刃のように、人の喜びを切り落とす言葉になる。
特に、高齢になって“できること”が少なくなると、「食べる」という行為が、どれだけその人の心を支えているか、それを見逃してはいけない。
食べることは、ただの栄養補給ではない。
五感を使って、いのちとつながりなおすこと。
口に入れたときの香り、舌にひろがる温度、咀嚼する音。
その一つひとつが「私、まだ生きてるんだ」と教えてくれる。
たとえ噛む力が弱くなっても、たとえご飯の量が少なくなっても、それでも、“味わう気持ち”は、ちゃんと残っている。
そしてその気持ちこそが、生きる力の芯になる。
ある日、その方に「今日のごはん、どうでしたか?」と聞いた。
すると、ほんのわずかに、うなずくようにまぶたが揺れた。
言葉はなかったけれど、頬がふわりとゆるんだのを私は見た。
きっと、その日も、心のどこかで桜が咲いていたのだと思う。
食べることを「減らす」だけのダイエットは、その人の「生きたい」を削ってしまう。
けれど、身体をいたわりながら、**「今日も食べられた」**を喜ぶなら、それはもう立派な“整え”になる。
今日もひと口、ゆっくりと。
味わうことで、過去と未来をつなぎなおす📍。
ごはんの時間は、生きることのやさしい証。
あの人の目が、ほんのすこしでも輝いたなら、それだけで今日という日は、もう十分に春なのです。
第3章 動かせるところが今日のスタートライン
その方は、いつもベッドの上にいた。
一見すると、まるで眠っているかのように、静かで、穏やかで、動かない。
でも、私は知っていた。
声をかけると、指先がわずかに反応することを。
朝のあいさつに、まぶたがそっと揺れることを。
タオルで手を包んでいると、ほんの少しだけ力を返してくれることを。
人は、動かなくなっても、感じることをやめない。
身体の奥には、まだちゃんと、動きたい気持ちが生きている。
だから私は、声に出して伝えていた。
「いま、右の手をゆっくりさすりますね」
「このあと、足の指をちょっとだけ動かしてみましょうか」
するとその方は、時に微かに、笑うような気配を見せた。
それはきっと、「わたし、まだ生きてるよ」と教えてくれるサインだった。
筋トレでもなく、有酸素運動でもない。
でも、指先をほんの1ミリでも動かせたなら、それがその日の運動。
呼吸が深くできた日なら、それがもう充分な“からだの伸び”になる。
まばたき一つでも、笑顔一つでも、立派な活動だ。
私たちが見逃してしまいがちなその小さな動きが、寝たきりの日常のなかでは、ちゃんと輝いている。
ある日、ベッドのそばに座りながら、そっと話しかけた。
「今日は、指を少し動かしてみませんか?」
すると、驚くほどゆっくりと、小指が少しだけ、ほんの少しだけ動いた。
私は、それを宝物のように思った。
この指は、春の風にふれたように、静かにそよいだのだ。
人の身体は、年を重ねても、諦めてはいない。
その一瞬の動きを「できたね」と喜んでくれる誰かがいれば、身体はそれに応えようと、また少しだけ動いてみようとする。
そうして、ベッドの上の世界🌏が、ほんの少し広がる。
「もう動けないから」ではなく、「まだ、ここは動かせるかもしれない」と見つけること。
それが、この春の“整える”ということなのかもしれない。
ほんのわずかでも、動かせるところがあるなら、それが、今日のスタートライン。
誰のペースでもない、自分のリズムで、心地よく一歩を踏み出す。
それだけで、その日一日は、きっとやさしい一日になる。
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まとめ 痩せなくてもいい“ほぐれた”からそれでいい
削られていったのは、ご飯だけじゃなかった。
その人らしさも、声も、笑顔も、「軽くする」という名のもとに、静かに、ひっそりと消されていった。
まるでそれが、正しいことのように。
けれど、本当の“整える”ということは、数字を下げることでも、誰かの都合に合わせることでもなくて、今日をちょっと心地よく生きることなんだと思う。
たとえば、まぶたを軽く動かせた日。
その指がほんの少し、タオルを握り返してくれた日。
食事の途中で、「おいしい」と微かに笑った日。
そんな瞬間の積み重ねが、誰にも見えなくても、その人の“春”を確かに育てている。
“ダイエット”という言葉には、時に冷たさが宿る。
でもこの春、私たちはその意味をもう一度、やさしく変えてみたい。
それは、「削る」のではなく、「ほぐす」こと。
動かせるところを、気持ちよくのばして。
食べられるものを、楽しく味わって。
息を深く吸い込んで、静かに吐いて。
ただそれだけで、「今日も私、生きている」と思えるなら――
それこそが、いちばんやさしくて、あたたかな整え方。
春は、何かを始めるのに遅すぎる季節じゃない。
窓の外で風が揺れたら、耳をすましてみてください。
鳥🕊の声が聞こえたら、ちょっとだけ首をかしげてみてください。
そのわずかな動きが、心と体を少しだけ軽くしてくれるから。
痩せなくてもいい。
数字が減らなくてもいい。
それでも、今日のあなたが昨日より少しほぐれて、誰かと笑顔を交わせたなら――それで十分なんです。
あの日、黙ってごはんを見つめていたあの方へ。
この春、私たちはもう一度、始め直します。
“生きている”という、静かで、確かなよろこびを忘れずに。
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