92歳一人暮らし男性のお正月~健康と孤立と見守りの程良い距離~

[ 1月の記事 ]

はじめに…92歳Aさんの普通のお正月を覗いて見る

お正月と聞くと、多くの人は家族が集まっておせちを囲み、テレビの特番を見ながら、こたつでゴロゴロ……そんな光景を思い浮かべるのではないでしょうか。ところが日本には、そのお正月を一人静かに迎えるご高齢の男性たちもたくさんおられます。今回の主人公は、仮称・Aさん、御年92歳。一人暮らし歴も長く、近所でも「まあ元気な頑固爺さんだ」と、ちょっとした有名人です。

とはいえ、年齢には逆らえません。病院に行けば、血圧だ、前立腺だ、骨粗鬆症だと、診察券の数だけ診断名も増えていきます。それでもAさん本人は、「まだまだ自分のことは自分で出来る」と胸を張り、年末の買い出しも、掃除も、お正月の準備も、できる範囲で工夫しながらこなしています。周りから見ると「大丈夫かな」と心配になる暮らしも、当の本人にとっては、自由で誇りある日常だったりするのです。

一方で、地域の人やご家族、そして私たち福祉・介護の専門職の目線は、どうしても「健康は?」「転んだら?」「孤立していないか?」と不安から始まりがちです。誰かが役所や地域包括支援センターに相談すれば、見守りの仕組みが動き出し、やがてケアマネージャーやヘルパーが玄関先に立つことになります。その時、Aさんの心に去来するのは、安心感だけではありません。「なぜ今さら?」「誰が言い出した?」そんなモヤモヤや怒りが、フツフツと湧き上がることもあるでしょう。

この記事では、「お正月に高齢者男性が一人暮らし」という、どこにでもありそうで、実はとても奥深いテーマを、Aさんの心の声を想像しながら辿っていきます。体のこと、暮らし振りのこと、地域との関わり方、そしてプライドやささやかな楽しみ。外からは見え難い本音に、ケアマネージャーとして寄り添おうとする視点も交えつつ、「守りたい気持ち」と「自分で生きたい気持ち」のちょうど良い距離を一緒に考えてみましょう。

お正月の晴れやかな空気の中で、92歳のAさんは何を大事にし、何を恐れ、何にホッとしているのか。読み終えた時に、身近な誰かの顔がフッと思い浮かぶような、そんな時間になれば嬉しいです。

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第1章…92歳一人暮らし男性の体と暮らしのリアル

仮称Aさん、年齢は92歳。数字だけを見ると、とても長く生きてこられたことが分かりますが、日々の暮らしの中では「年齢そのもの」よりも、「どこまで自分で出来るか」の方が、Aさんにとっては大きな問題です。

病院に行けば、高血圧や心臓の負担、前立腺のトラブル、骨粗しょう症、腰や膝の痛み……いろいろな“名前”がついた症状を抱えているかもしれません。レントゲンを撮れば、背骨が少し丸くなっていたり、昔の骨折の跡が見つかったりもするでしょう。指先や爪先が冷えやすくなり、皮膚も乾燥して痒みが出ることがあります。こうした変化は、どれか1つだけが問題なのではなく、全部が少しずつ重なって、動きづらさや疲れやすさに繋がっていきます。

それでもAさんは、「まだ自分で出来る」と思っています。年末になると、埃を払い、神棚や仏壇を整え、玄関先も綺麗にして、新しい歳神様を迎える準備を始めます。若い頃のように一気には進みませんが、今日はここまで、明日はあそこをと、数日に分けてコツコツ進めていきます。1日でやろうとすると倒れてしまうかもしれませんが、Aさんは自分なりのペースを身体で学んでいるのです。

買い物に行く場面でも、体の変化ははっきり表れます。お正月用品は、いつもより荷物が重くなりがちです。お餅、野菜、魚、飲み物、日用品……カゴに入れれば入れるほど、レジ袋はズッシリ重くなります。若い頃なら「ちょっとくらい無理しても平気」だったかもしれませんが、今はそうはいきません。途中で息が上がったり、段差で躓きそうになったりするたびに、「次からはもう少し控えめにしようかな」と、胸の中でそっと計算をし直します。

台所に立つ時間も、年齢と共に工夫が必要になります。長時間、立ちっぱなしで料理をするのはしんどくなるため、簡単に温めれば食べられるものを多めに用意したり、火を使う時間を短くしたりと、Aさんは自分なりに「手抜き」と「安全」のバランスを取ろうとします。包丁を持つ手が少し震える日には、固い食材は避け、切りやすいものを選ぶこともあるでしょう。それは決して怠け心ではなく、「今の自分に合わせた暮らし方」を選び取っている姿です。

お風呂やトイレも、実は大きなポイントになります。浴室の床が冷たく感じるようになり、湯船の出入りが一苦労になってきます。冬場は、急な血圧の変化も心配です。トイレに行く回数も増え、夜中に何度か目が覚めてしまうこともあるでしょう。そのたびに布団から出たり入ったりするのは、転倒の危険と隣り合わせです。それでもAさんは、「まだ自力で行ける」と思うからこそ、慎重に足元を確かめながら歩きます。ここには、自分の生活を自分の力で守りたいという、強い気持ちが隠れています。

こうして見ていくと、92歳の一人暮らしは、決してドラマのような“特別な世界”ではありません。少しずつ体力が落ち、持久力に限界が見えつつも、自分のペースで工夫しながら暮らしを組み立てている、一人の生活者の姿があります。外から見ると心配でたまらない場面も、Aさんにとっては「まだ出来る」「これくらいなら大丈夫」という、自信と誇りの積み重ねでもあるのです。

健康状態の変化は、たしかに大きな課題です。しかし同時に、「どこまでなら自分でやりたいか」「どこからは誰かの手を借りたいか」という線引きも、Aさんの中でははっきりと存在しています。第2章では、その線引きが周囲の人たちの思いとどうずれていくのか、そして“孤立”という言葉の陰に、どんな本音が隠れているのかを見ていきましょう。


第2章…孤立と一人時間~寂しさと気楽さの間~

一人暮らしのご高齢男性と聞くと、多くの人は「寂しそう」「放っておけない」と心配になります。特にお正月は、家族が集まるイメージが強いだけに、窓の明かりが1つだけ灯る家を見ると、「あの家のお爺ちゃん、大丈夫かしら」と胸がざわつく方も多いでしょう。

地域でも、いろいろな形でAさんのような方を気にかけています。自治会、老人クラブ、民生委員さん、近所の顔馴染みの方たち。回覧板を届けるついでに玄関先で声を掛けたり、ゴミ出しの様子をさりげなく見守ったり、配食サービスの職員さんが「いつもと違う様子はないか」をそっと感じ取ったり。もしも長く姿が見えなかったり、家の中から異臭がしたり、郵便物がたまったりすると、市役所や地域包括支援センターに繋がって、何らかの対応が検討されます。

これは決して「詮索好き」ではなく、「何かあってからでは遅い」という切実な思いから生まれた行動です。過去に痛ましい出来事を経験した地域ほど、「今度は見逃したくない」と、アンテナが敏感になります。ただその一方で、見守られる側のAさんからすると、その視線が「安心」ではなく「監視」に感じられてしまうこともあります。

Aさんの日課は、意外ときちんと決まっています。朝は決まった時間に起きて、簡単な朝食を摂り、新聞を読む。昼間はテレビを点けっ放しにしながら、洗濯をしたり、仏壇に手を合わせたり、窓の外を眺めたり。夕方には近所をひと回りして空気を吸い、夜はお気に入りの番組と晩酌を楽しんで布団に入る。周囲から見ると「ほとんど誰とも話していない、一日中で家にいる」と映るかもしれませんが、本人からすれば、「毎日やることはちゃんとあって、それなりに忙しい」のです。

ここで大きなズレが生まれます。外からは「人との関わりが少ない=孤立している」と見えやすいのに対して、Aさん自身は「人付き合いが減ったおかげで、気を使う回数が減って楽になった」と感じているかもしれません。家族や地域の人からの訪問が多過ぎると、「ゆっくり昼寝も出来やしない」と、愚痴を溢したくなる日もあるでしょう。

もちろん、寂しさがまったく無いわけではありません。年末年始のテレビで、家族団欒のシーンが何度も映ると、ふと胸の奥がキュッとする瞬間もあります。亡くなった奥様や、遠くに住む子どもや孫の顔を思い出して、「元気にしとるんかな」と呟く夜もあるでしょう。それでもAさんは、「寂しい」とはなかなか口にしません。その言葉を出した瞬間、自分が弱くなったような気がするからです。

だからこそ、周囲の「寂しそう」という印象と、本人の「このくらいがちょうど良い」という感覚は、簡単には重なりません。地域の集まりに誘っても、「儂はいい」と断られることがあります。こちらは「人との繋がりを持って欲しい」と思って声を掛けているのに、本人からすると「若い頃から群れるのは好きじゃない」「知らない人ばかりの場は疲れる」という本音があるのです。

お正月の訪問も同じです。福祉職やボランティアが「ご挨拶だけでも」と伺うと、Aさんは玄関先で笑顔を見せるかもしれません。しかし心の中では、「誰かが儂のことを心配して、どこかに連絡したんだろうな」と、薄々察していることもあります。有り難さと同時に、「自分の暮らしを、陰であれこれ話されているのではないか」というモヤモヤも生まれます。

一人暮らしのご高齢男性にとって、「孤立」と「一人の自由」は、紙一重のところにあります。周りが心配するほど、本人が困っているとは限りませんし、逆に、笑顔で「大丈夫」と言っていても、夜中にふと涙が出るほどの不安を抱えていることもあります。この微妙な境界線にどこまで踏み込むのかが、家族や地域、そして専門職にとって、いつも悩ましいところです。

次の第3章では、通報や支援が動き出したとき、Aさんの心の中にどんな感情が渦巻くのか、「助けたい人」と「自分で生きたい人」の思いがどうすれ違ってしまうのかを、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。


第3章…通報・支援・プライド~見守る側と見守られる側のズレ~

ある年の暮れ、Aさんの家の前を、時々、通りがかる近所の方がいました。数日続けて雨戸が閉まったまま、洗濯物も出ていない。声を掛けても返事がない日があった――そんな小さな違和感が積み重なると、人はどうしても「何かあったのでは」と不安になります。家族も遠方に暮らしていたりすると、「自分が動かないと、この人は誰にも気づかれないかもしれない」という責任感のような気持ちが湧き上がります。そこで、その方は市役所や地域包括支援センターに相談の電話を入れました。「ちょっと心配なので、様子を見て欲しいだけなんです」と、胸の中のドキドキを押さえながら。

やがて、福祉の担当者やケアマネージャーが連携して、Aさんの家を訪ねる日が決まります。チャイムが鳴り、インターホン越しに名乗る声が聞こえてくると、Aさんは最初こそ「何事だ?」と耳を疑います。「地域の方から、少し心配する声がありまして」「お元気かどうか、様子を見に来ました」。こうした言葉は、支援する側からすれば最大限柔らかい表現ですが、受け取る側にとっては、「誰かが儂の暮らしを“問題”として告げ口したのか」という印象に繋がりやすい、一種の衝撃でもあります。

頭では「心配してくれたのだろう」と分かっていても、胸の奥には別の感情が渦巻きます。「儂は自分なりにやっておるだけだ」「どうして勝手に話をされたのか」「監視されているようで、落ち着かない」。特に若い頃から、仕事や家庭で自分の意見を通してきたタイプの男性ほど、「年を取ったからといって、急に子ども扱いされるようになった」と感じてしまうことがあります。それは単なる我儘ではなく、「自分の人生の舵は、最後まで自分で握っていたい」という強い願いの裏返しです。

一方、相談をした近所の方や家族、そして支援に入る専門職は、「命に関わることが起きる前に、守りたい」という思いで動いています。孤立死のニュースや、ゴミ屋敷、人知れず体調を崩していた事例などを耳にするたび、「自分の周りでは、もう二度と同じことを繰り返したくない」と誓う人も少なくありません。だからこそ、「このまま一人で大丈夫だろうか」「何かあってからでは遅い」という不安が、通報という行動に繋がります。ここには、確かに“善意”があります。

しかし、人間関係は白黒では割り切れません。守りたい側の善意と、守られる側のプライドがぶつかる時、そこにはどうしても「自分は正しい」という思いが顔を出します。多数の人が「このままでは危ない」と感じれば、その声は「常識」として大きくなり、Aさんのような少数派の考えは、我儘や頑固として片付けられがちです。けれども、AさんにはAさんの人生の歴史があり、自分なりの理屈があります。暮らし振りが多少荒れて見えても、「これでも何とかやっているんだ」と感じている人にとっては、外からの介入は、自分の努力を否定されたようにも受け取れてしまうのです。

「守る側が正義で、守られる側が間違っている」と決めつけてしまうと、大切な対話の糸口が途端に失われます。逆に、「全部ほうっておいてくれ」という本人の言い分だけを尊重し続ければ、命に関わる危険が現実のものとなるかもしれません。このどちらかだけに振り切るのではなく、「なぜ心配するのか」「なぜ介入されたくないのか」を、ゆっくり言葉にしていくことが、本当は何よりも重要です。

第4章では、お正月という節目の時期だからこそ、家族や地域、そしてケアマネージャーが、どんな声の掛け方や関わり方を選べるのか。Aさんのプライドを尊重しながら、静かなSOSも見逃さないための、小さな工夫について考えていきます。


第4章…お正月だから出来ること~家族・地域・専門職の小さな一歩~

お正月は1年のうちで一番「訪ねる理由」が作りやすい時期です。普段は遠慮してしまうご家族やご近所さんも、「年始の挨拶に来ました」「お餅をお裾分けに来ました」と声を掛けやすくなります。Aさんのような92歳の一人暮らし男性にとっても、いきなり「心配だから来ました」と言われるよりも、季節の挨拶の延長で玄関をノックされる方が、受け止めやすいものです。

例えば遠方に暮らす家族なら、年賀状だけで終わらせず、お正月のどこか1日を「電話の日」「オンラインで顔を見る日」と決めてしまうのも一つの方法です。ただ体調を聞き出すだけでなく、「今年はどんな風に過ごしたい?」「昔のお正月って、どんなだった?」と、思い出話や将来の楽しみにも話題を広げてみます。Aさんの中にある「まだ自分で決めたい」「こうしていたい」という気持ちを引き出すことができれば、それ自体が1つの安心になります。

近所の人や地域の役員さんの立場であれば、長居をする必要はありません。玄関先で軽く世間話を交わし、「また顔を出しますね」と自然に言える関係を積み重ねていくことが大切です。こちらが構え過ぎると、「調査に来た人」のような雰囲気になりがちですが、「この道を通るついでに顔を見に来ました」という空気感を保てると、Aさんも少しずつ心を開きやすくなります。話題も、いきなり病気や心配事から入るのではなく、テレビ番組や天気、昔の仕事の話など、Aさんが得意そうなテーマから始めると良いでしょう。

ケアマネージャーなど専門職にとって、お正月前後は「初回の顔合わせ」を切り出しやすいタイミングでもあります。「年が明ける前に、一度ご挨拶だけでも」「新しい年を安心して迎える準備のお手伝いが出来れば」といった言葉は、押し付けになり難く、節目の雰囲気とも馴染みます。ここで大事なのは、最初からサービスの説明や施設入所の話に飛び込まないことです。

Aさんのこれまでの人生に耳を傾け、「若い頃はどんな仕事をしていたんですか」「どんな風に家族を支えてこられたんですか」といった問い掛けから始めると、「自分は守られるだけの存在ではない」という誇りを保ちながら対話を続けられます。その上で、「困った時に、どこに電話したら安心か」「転んでしまった時に、どうやって助けを呼べると心強いか」など、具体的な場面を一緒にイメージしていきます。

家族や地域、専門職が出来ることは、派手な支援ではありません。例えば、配食サービスや見守り付きの宅配、緊急通報の仕組みなどを提案する時も、「出来なくなったから入れる」のではなく、「今の暮らしを続けるための道具」として紹介していく工夫が必要です。「これがあれば、もしもの時に家族に早く知らせられますよ」「このサービスを使っておけば、買い物の回数を減らして、その分、好きなことに時間を使えますよ」といった伝え方なら、Aさんの自立心と相性が良くなります。

お正月の場面を上手に使うと、普段は切り出し難い話題も、少しだけ話しやすくなります。「今年の目標は?」「体のことで、ここだけは気をつけたいって思うところはある?」といった問い掛けを手掛かりに、今後の暮らし方や支援の入り方を一緒に考えることが出来ます。大切なのは、答えを急がないことです。Aさんが「うーん、どうかなあ」と考え込む時間ごと、丁寧に受け止めていく姿勢が、信頼に繋がっていきます。

そして、もし施設入所やサービス利用が現実味を帯びてきた時には、「ここから先は別の担当です」ときっぱり線を引いてしまわないことも、専門職にとって大事な視点です。入所後も年賀状を送ったり、年に1度だけでも顔を見に行ったりするだけで、「あの時、自分を説得した人は、本当に置き去りにしなかった」と感じてもらえるかもしれません。切れ目のない関わりは、制度上の義務ではなくても、人の心にとっては大きな支えになります。

お正月は、時間の流れをふと立ち止まって見つめ直すチャンスです。Aさんのような92歳の一人暮らし男性にとっても、家族や地域や専門職にとっても、「これからの1年を、どんな距離感で支え合っていくか」をそっと確認し合える特別な季節でもあります。次のまとめでは、こうした関わりの中で見落とされがちな「本音」と「静かなSOS」に、もう一度視点を戻してみたいと思います。

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まとめ…「放っておいて」の裏にある本音と静かなSOS

お正月に、92歳のAさんが一人で過ごしている――この状況を、私たちはつい「可哀相…」「危ないかもしれない」と心配の色で見てしまいがちです。けれど記事を通して見えてきたのは、「一人暮らし=不幸」ではなく、「自分の生活を、自分の力とペースで続けたい」という誇りと願いでした。年齢と共に体力は落ち、体の不調も増えていきますが、その中でも工夫を重ねながら暮らしを守ろうとする姿には、長年積み重ねてきた人生の重みが滲んでいます。

一方で、家族や地域、専門職の側には、「重大なことが起きる前に守りたい」という切実な思いがあります。孤立死や、手遅れになってしまった事例を知っているからこそ、「何かあったらどうしよう」という不安が、役所や地域包括支援センターへの相談へと繋がります。その行動自体は、決して責められるものではありません。むしろ、見て見ぬ振りをしない勇気の表れでもあります。

ただ、その善意がAさんの胸に届く時、必ずしも「ありがとう」とだけは受け取られません。「誰が言い出したんだ」「なぜ、儂の暮らしが問題扱いされるのか」という怒りや戸惑い、そして「年を取った自分は、いつの間にか監視される側に回ったのか」という寂しさも、同時に生まれます。「放っておいてくれ」という言葉の裏には、「弱い自分を見せたくない」「迷惑を掛けたくない」「それでも本当は、誰かに気に掛けていて欲しい」という、いくつもの本音が重なっているのかもしれません。

ケアマネージャーとして初回訪問に向かう時、多くの場合、手元にある情報はわずかです。「一人暮らし」「ゴミが溜まっている」「近所から心配の声」といった断片だけを手掛かりに、私たちは玄関のチャイムを押します。そこで出会うのは、“支援の対象”というより、喜怒哀楽をたっぷり抱えた一人の生活者です。施設入所を勧めて合意を得た後、環境の激変や「お世話になる」ことへの葛藤から、心が追いつかないまま体調を崩していく方と向き合う経験も、少なくありません。

だからこそ、「入所が決まったから終わり」「サービス導入までが仕事」という線の引き方だけでは、救い切れない思いが残ります。業務上の担当は変わっても、年賀状を1枚送る、近くまで行ったついでに顔を見せる、気に掛けていることをさりげなく伝える――そんな小さな継続が、「あの時、自分を説得した人たちは、本当に見捨てなかった」と感じてもらう切っ掛けになるかもしれません。

家族や地域の方に出来ることも、特別なことではありません。お正月の挨拶やお裾分けを口実に、時々顔を見に行くこと。体調を問い詰めるのではなく、「今年はどんな風に過ごしたい?」「昔のお正月はどんな感じだった?」と、思い出やこれからの楽しみを一緒に語ること。その中で、「もしも困った時は、こうしてくれたら助かる」という言葉が、ポロリとこぼれてくるかもしれません。

お正月は、時間の流れをふと立ち止まって眺める季節です。92歳のAさんにとっても、家族や地域、専門職にとっても、「これからの1年、どんな距離感で支え合っていくか」を静かに確かめ合えるタイミングでもあります。「放っておいてくれ」という一言に込められたプライドを尊重しながら、その裏側にある「誰か、自分のことを覚えていて欲しい」という静かなSOSも見逃さないこと。

そんな眼差しを、今年のお正月、自分の身近な誰かに向けてみることが出来たなら――それだけで、一人暮らしのお正月は、ほんの少しだけ温かくなるのかもしれません。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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