春の中でも年度末と年初は出会いと別れの季節!必然も多いですが縁を大切にしよう

目次
はじめに…
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「会うは別れのはじめ」とは、なんとも味のあることわざです。
初めて聞いたときは「え?出会ったばっかりなのに、もう別れの話!?」とツッコミたくなりましたが、確かにその通り。
人との出会いには、いつか終わりが訪れるものです。
けれど、それが寂しいだけの話かといえば、そうでもないのです。
私たちは人生の中で、ほんとうにたくさんの人と出会います。
思いがけない偶然の出会いに心が躍ったかと思えば、どうしても避けられないお別れに、しんみりする日もあります。
出会いはまるで春風のようにふわりと訪れ、別れは夕暮れのように静かに忍び寄る――そんな風に思えてくるのです。
特に春先、年度末から新年度にかけては、桜の開花予想と同じくらい、人の流れも大きく動きます。
卒業、進級、入学、転勤…。保育園から小学校、小学校から中学校と、まるでステージを移動するように、子どもたちは次々に新しい世界へ飛び込んでいきます。
中には「うちの子、卒園式で爆泣きしてたのに、そのあとおやつ食べてケロッとしてたなぁ」なんて微笑ましいエピソードを持っている親御さんもいることでしょう。
それでも、ひとつひとつの出会いと別れは、ちゃんと心のどこかに刻まれていくのです。
まるで春風に乗って、花びら🌸が舞うように。
どんなにさりげなくても、どんなに短くても、出会ったその瞬間の時間は、たしかに人生の一部になっている。
そう思うと、なんだか全部が愛おしく感じてくるのが春の魔法なのかもしれません。
今回は、そんな「出会いと別れ」と「ご縁」について、ちょっと懐かしくて、ちょっと笑える、そしてちょっと深いお話をお届けします。
心にふわっと花が咲くような気持ちで、どうぞ最後までお付き合いくださいね。
春という名の通過点!出会いと別れは“成長”の合図
春になると、どうしてこうも人はざわざわと落ち着かないのでしょう。
桜が咲くたびに、「あぁ、今年も来たか…」なんて言いながら、心のどこかでソワソワしてしまうのは、きっと“別れ”と“出会い”がセットで押し寄せてくるからかもしれません。
保育園の卒園式、小学校の卒業式、中学、高校、大学…。
あれよあれよと、まるで乗り換えの多い電車のように、子どもたちは次の駅へ向かっていきます。
見送る親はというと、「あの小さかった我が子が、ランドセル背負って卒業なんて…」と感慨にふけった数分後には、「えっ、卒業式のあとに友達とプリクラ?夕飯いらない?じゃあ、私は何を作れば…」と現実に引き戻されるわけです。
それでも、こうして人は少しずつ「別れ慣れ」していくのです。
小さな別れを経験し、ちょっとずつ自分の心を整理する術を覚えていく。
保育園の頃は、隣の席の子がいなくなっただけで大泣きしていたのに、小学生になると「LINEでつながってるから」とあっさりしていたり。
中学生になると「別に、また会うし」と言いつつ、こっそりアルバムの最後のページにメッセージを残していたり。
そうやって、出会いと別れの“段取り”も、年齢とともに上手になっていくのかもしれません。
もちろん、出会いもスケールアップしていきます。
近所の公園で出会った友達が、今度は同じクラス、さらに部活の仲間、そして将来の夢を語り合う同志になったりするのです。
逆に、いつの間にか音信不通になっていたあの子の名前が、ふとしたきっかけで思い出されて、しみじみする夜もあるでしょう。
高校や大学ともなると、選ぶ道もそれぞれ。
公立、私立、地元、遠方、海外…と、選択肢は一気に広がります。
もうこの頃には、親の出る幕もだいぶ減って、子どもたち自身が「自分で決める」ことを求められます。
それはもう、ドキドキの連続。
進路に悩んで泣いた日も、第一志望に受かった日も、友達と抱き合って喜んだ瞬間も、全部が人生のドラマなんですよね。
そして、社会人になると、これはもう別格です。
出会いも別れも、“自己判断📌”というスパイスがしっかり効いてきます。
どこで働くか、誰と付き合うか、どこに住むか、何を手放すか。
あらゆる選択が、自分の責任で自分に返ってくるのです。
ここまで来ると、もう「出会いと別れのプロ」と言ってもいいかもしれません。
いや、免許はありませんが、履歴書と名刺でじゅうぶん証明できる実績でしょう。
でもだからこそ、春の出会いと別れは、どこか特別で愛おしいのです。
桜が満開になるたびに、過去の自分と今の自分を見つめ直して、「あぁ、ちゃんと大人になったなぁ」と、ひとり反省会を開くのも悪くないかもしれません。
出会いと別れは避けられない!でも心は置き去りにしないで
大人になってから気づいたことがあります。
出会いと別れって、案外ルール通りにやってくるということです。
たとえば保育園から小学校へ、小学校から中学校へと、成長とともにきっちり別れのタイミングが用意されている。
国語や算数と同じくらい、出会いと別れの「カリキュラム」が組まれているようにも思えてくるのです。
もちろん、「来年からは〇年生!」なんて張り切っていた頃は、そんなこと全然気にしていませんでした。
目の前の友達と、明日の給食のデザートのことで頭がいっぱい。
でも、今になって思えば、あの頃からすでに私たちは“別れ慣れ”の練習をさせられていたのかもしれません。
泣いたり笑ったり、ケンカして謝ったりしながら、ちゃんと「お別れ」を経験していたんですね。
でも、大人になってからの別れは、ちょっと違います。
あれ?進級も卒業もないのに、なんでこんなに別れがあるんだろう?って、不意打ちのように感じる瞬間があるのです。
職場の同僚が突然の転職、仲良くしていたご近所さんが急な引っ越し、長年お世話になったお店がひっそり閉店。
カレンダーに載っていない別れが、ぽろぽろと日常にこぼれていくのです。
そうなると、出会いも別れも、スケジュール帳には書けません。
しかもその多くが、自分で決めたり、自分で選ばなければならなかったりする。
なんということでしょう、成長するってなんて自由で、なんて責任重大なんでしょう。
でもここで、ひとつ立ち止まってみたいのです。
出会いと別れが避けられないものであるならば、せめてそのたびに、ちょっとだけ心を働かせてみることはできないかと。
あのときの別れ、ちゃんと心の中でお別れできていたかな。
あの人との出会い、ちゃんと受け止められていただろうか。
そんなふうに、立ち止まって、ちょっとだけ自分の心に声をかけてあげる時間が、大人には必要なのかもしれません。
私自身、子どもが育っていくのを見守りながら、ふと昔の自分と向き合う瞬間🩷が増えてきました。
「あの頃、もっとこんなふうに友達と過ごしていたらよかったな」と思うこともありますし、「あのとき何気なく交わした会話が、今も心に残っているな」なんて、懐かしさに包まれることもあります。
不思議なもので、自分の子どもが節目を迎えるたびに、昔の自分が顔を出してくるんですね。
ちょっと反省したり、ちょっとニヤけたり。
過去と今とがごちゃまぜになりながらも、「よし、せめてこの子には、今のひとつひとつを大切に感じてほしい」と、願ってやまないのです。
別れは確かにさみしい。
でもその先には、次の出会いが必ずやってきます。
だからこそ、別れをただの“終わり”として扱わず、“次へのバトン”として受け取ってみたら、人生はもうちょっと楽しく、優しくなるかもしれません。
ご縁は心の宝箱!ほっこりした記憶があなたを強くする
人生のどこかで誰かに言われたのです。
「世の中に無駄な人なんていない」と。
そのときは、ふーん…と何気なく聞き流していたのに、歳を重ねて、いろんな人と出会って、いろんな別れを経験してきた今となっては、「なるほど、確かに」と妙にしみじみ納得してしまうのです。
思い返せば、私の人生にもいろんな人が登場してきました。
幼稚園時代のあの子。
小学校でいつもランドセルに謎のマスコットをぶら下げていたあの子。
中学ではクラスで静かだったけど運動会で急にヒーローになった子。
高校では一緒に下校してアイスを食べながら将来の夢を語った仲間。
…なのに、今は連絡先も知らない。
どこで何をしているのか、さっぱりわからない。
まるで人生の映画にちょこっとだけ出てきたエキストラのように去っていった人たち。
でも、なぜだかふと思い出すのです。
不思議なくらい突然に。
「元気にしてるかな」って、ふと空を見上げながら思い出す人がいるって、すごく素敵なことじゃないでしょうか。
特別に何かがあったわけじゃなくても、あのとき笑い合ったこと、ちょっとしたケンカで泣いたこと、何でもない時間を一緒に過ごしたこと。
それが、思い出としてちゃんと心にしまわれている。
まるで宝箱にそっと仕舞った大事な小物のように。
私は、我が子の子育てをしてきた中で、いろんなセリフをついつい言ってしまいました。
保育園では「友達100人つくろう!」なんて張り切って言ったけど、実際の園児数はその半分もいなかった気がします。
小学校では「人生の縮図がここにある!」と、まるで校舎がミニ地球のように思えていたこともあります。
中学校になると「勉強は大事!でも遊びも本気でやれ!」なんて偉そうに言いながら、自分の中学時代はどうだったかと問われると…まぁ、秘密です(笑)
でも、こうやって思い返してみると、どの時代の思い出にも、必ず“誰か”が関わっているんですよね。
ひとりで完結している記憶なんて、意外と少ない。
思い出の中には、必ず笑い声があって、誰かの顔が浮かんでくる。
その人と過ごした時間が、私という人間の一部になっているような気がします。
たとえ再会できなくても、たとえ名前を忘れてしまっても、その記憶はちゃんと生きているんです。
心🩷の中でひっそり灯る明かりみたいに。
「あのときの自分も、なかなか良かったじゃない」と思える記憶は、自分にとっての応援団のようなものかもしれません。
迷ったとき、落ち込んだとき、ふと背中を押してくれる存在。
それが“ご縁”なのだと思うのです。
子どもたちにも、そんなあたたかい出会いと別れをたくさん経験してほしい。
笑って泣いて、喧嘩して仲直りして、一緒に時間を過ごした誰かとの思い出を、しっかり心に刻んでほしい。
その記憶は、きっといつか、自分を支える“心の宝箱”になる。
ほっこりした記憶こそが、人生を豊かにする最高のスパイスだと、今ならはっきり言えます。
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まとめ 縁の記憶は人生のバックアップ!出会った奇跡は忘れない
小学校の卒業式が近づく頃、クラスでサイン帳が流行ったことを、ふと思い出しました。
「名前と住所と、なんかひと言書いて!」とお願いして、まるで回覧板のようにまわされるノート。
今ならもう、住所を書くのはプライバシーがどうとか、個人情報保護法がこうとかでNGかもしれませんが、当時はそんなことより、「このページ、ハートいっぱいで可愛くしてね🩷」の方が大事だったんです。
…で、肝心のそのサイン帳、今どこにあるのかというと…正直わかりません。
引っ越しを何度も重ねて、押し入れのダンボールにあるのか、それとももうどこかへ旅立ってしまったのか。
けれど、不思議なことに、内容までは覚えていなくても、「書いてもらった」その嬉しさや、「あの子の言葉がなんかキラキラしてた」そんな感覚は、今もちゃんと心の奥に残っているのです。
私も気づけば、社会人としては10社ほどの職場を渡り歩いてきました。
気分はもう、転職界のベテラン旅人。
業種も規模もいろいろでしたが、そのたびにいろんな人に出会い、そして別れてきました。
特に高齢介護の現場では、利用者さんから行政の方、家族、地域の方々まで、ほんとうにたくさんの縁に恵まれました。
数千人規模の出会い…と書くと、なんだかアイドルみたいですが、実際は名前も顔も思い出せない方もいらっしゃいますし、顔だけ浮かんでも名前が出てこないという悲しき現象も増えてきました(年齢のせいでしょうか…いや、記憶の渋滞ですね、きっと)。
それでも、ある日ふとした瞬間に、過去の誰かの笑顔がよみがえることがあります。
あのとき、あの場所で、一緒に働いたあの人。
通勤の途中でいつも挨拶してくれたあの方。
もう二度と会えないかもしれないけれど、出会ったという事実だけは、心のどこかにずっと残り続けている。
それって、ものすごく大きなことなんだと思うのです。
人とのご縁は、時にあっさり途切れるように見えて、じつは自分の中で生き続けている。
大切な出会いを、切らずに、忘れずに、やさしく抱えて歩いていくことで、自分自身もまた少しずつ豊かになっていける気がします。
人生は一度きりですから、すべての出会いを完全に覚えているのは無理でも、「あのとき確かに、誰かと笑い合った」という感覚だけは、消えずに残しておきたいものです。
そんなふうに思いながら、春の訪れとともに、ふわっと心の引き出しを開けてみる。
するとそこには、過去の出会いが、そっと笑顔で座っていたりするのです。
出会ってくれて、ありがとう。
別れたけど、忘れてないよ。
そう言える人が、ひとりでも思い浮かぶなら、それはもう、じゅうぶん素敵な人生じゃないでしょうか。
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