花咲かじいさんは春だけの昔話じゃない~ポチと桜が教えてくれるやさしさの咲かせ方~

[ 季節と行事 ]

はじめに…春の枝先に思い出す昔話のぬくもり

春の道を歩いていると、まだ細い枝の先に、プクッとした小さな蕾が見えることがあります。

「咲くかな」

「まだかな」

そんなふうに見上げている時間は、少しだけ人をやさしくします。

けれど、桜の季節はなかなか気まぐれです。週末に合わせてお弁当を考えたら雨。満開だと思って出かけたら三分咲き。油断していたら、風にさらわれて葉桜。春の予定表は、まるでお天気の気分次第で赤ペンを入れられているようです。いや、こちらも少しは相談してほしいものです。

そんな時、ふと心に浮かぶ言葉があります。

「枯れ木に花を咲かせましょう」

昔話『花咲かじいさん』のあの声です。

この物語は、ただ桜がパッと咲く楽しい話ではありません。やさしい老夫婦、犬のポチ、宝物、欲ばりな人、灰、そして満開の花。いろいろな出来事が重なりながら、最後には「人の心にも花は咲くのだな」と感じさせてくれます。

小さな親切は、その場では目立たなくても、いつか誰かの心に春を連れてくることがあります。

もちろん、昔話らしく少しこわい場面もあります。子どもに語るなら、声の調子や言葉の選び方にも気を配りたいところです。電光石火の展開に大人の方が「えっ、そんな急に?」と戸惑うこともありますが、それも昔話の味わいです。台所で味見をし過ぎて、料理が出る前に満腹になるようなもの……少し違いますかね。自分で言っておいて、春の空気が一瞬止まりました。

それでも、この物語が長く親しまれてきたのは、そこに勧善懲悪(よい行いが喜ばれ、悪い行いが戒められる考え方)だけではない温かさがあるからでしょう。誰かを大切にすること。命を悼むこと。真心を持って暮らすこと。そして、悲しみの後にも花が咲くこと。

春の桜を待つ気持ちと一緒に、『花咲かじいさん』をもう一度、ゆっくり味わってみませんか?

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第1章…桜を待つ朝に聞こえる「枯れ木に花を」の声

春の朝、窓を開けた瞬間に、空気が少しやわらかくなっている日があります。

冬の名残がまだ袖口にいるのに、どこかで春が「そろそろ出番です」と小声で合図しているような朝です。そんな日に桜の枝を見上げると、蕾はまだ固いのに、心の中ではもう満開の場所取りが始まっています。

お弁当は何にしようか。お茶は温かい方がいいか。敷物はどこにしまったか。

春の準備は、花が咲く前から始まっています。ところが桜は、人間の予定表をあまり見てくれません。こちらが「日曜日にお願い」と頼んでも、桜は桜の都合で咲きます。なかなかの自由業です。こちらは会社員感覚で予定を組んでいるのに、相手は自然界の芸術家。そりゃ、擦れ違いも起きます。

雨が降る。風が吹く。まだ咲かない。もう散った。春のあるあるは、なかなか手強いものです。

そんな時に、あの言葉がフッと浮かびます。

「枯れ木に花を咲かせましょう」

言葉だけを聞けば、何とも景気の良いひと声です。けれど『花咲かじいさん』の面白さは、ただ灰を撒いたら桜が咲いたという派手な場面だけではありません。そこに辿り着くまでに、老夫婦のやさしさ、ポチとの出会い、信頼、悲しみ、真心が重なっています。

桜が咲く場面は、奇跡の始まりではなく、やさしさが積み重なった後のご褒美のように見えてきます。

そう思うと、「枯れ木に花を」という声は、ただの名場面ではなくなります。冬の間、眠っていた枝に花が戻るように、沈んでいた気持ちにも明かりがともる。そんな春の合図に聞こえてくるのです。

昔話は、時々びっくりするほど展開が早いものです。ポチが出てきたと思ったら宝が出る。宝が出たと思ったら欲ばりな人が動く。気づけば臼ができ、灰が舞い、桜が咲く。正に電光石火。現代の連続ドラマなら、ここで3話くらい使いそうです。昔話の編集係、かなり仕事が早いですね。

けれど、その早さの中にも大切な流れがあります。やさしい老夫婦は、ポチに見返りを求めていません。困っている犬を見つけて、ただ放っておけなかった。最初の一歩は、宝物でもご褒美でもなく、「かわいそうに」「おいで」という気持ちだったのでしょう。

春の花見も、どこか似ています。桜そのものも美しいのですが、本当に心に残るのは、誰かと一緒に見上げた時間だったりします。お弁当の卵焼きが少し焦げていたこと。風で紙皿が逃げたこと。お茶を注ごうとして、何故か自分の手にかけたこと。ありますよね。ないですか?私はあります。春風、なかなか油断なりません。

それでも、そんな小さな出来事まで、後で笑える思い出になります。百花繚乱(たくさんの花が華やかに咲きそろう様子)の桜並木だけが春ではありません。まだ咲かない枝を見上げて「もう少しかな」と待つ時間にも、ちゃんと春はあります。

『花咲かじいさん』の声は、満開の桜だけに向けられたものではないのかもしれません。元気のない日、うまくいかない朝、予定どおりに進まない暮らし。そんな枯れ木のような気分の日にも、「大丈夫、まだ咲けるよ」とそっと声をかけてくれる。

春の物語は、枝先だけでなく、心の奥にも花の場所を作ってくれます。


第2章…ポチが掘り当てたのは小判より先に信頼だった

『花咲かじいさん』の始まりで、胸に残るのは宝物よりも先に、ポチと老夫婦の出会いです。

犬がやって来る。老夫婦が迎える。ご飯を分ける。名前を呼ぶ。日なたで休ませる。

それだけ聞くと、とても静かな場面です。けれど、この静けさの中に物語の根っこがあります。ポチは、いきなり「宝の地図を持ってきました」と登場したわけではありません。まず安心できる場所をもらい、声をかけてもらい、少しずつ心を開いていったのでしょう。

人も動物も、安心できる相手の前では表情が変わります。犬ならしっぽが揺れ、目がやわらぎます。人なら肩の力が抜け、言葉が少し増えます。信頼関係(相手を安心して受け入れられるつながり)は、目には見えませんが、日々の小さな動きにちゃんと表れます。

ポチが本当に掘り当てたものは、大判小判の前に、老夫婦とのあたたかな信頼だったのかもしれません。

ある日、ポチが「ここ掘れワンワン」と鳴きます。

この場面、子どもの頃は「犬、すごい!」で済ませていた気がします。大人になってから見ると、少し見え方が変わります。ポチは、誰にでも同じように宝の場所を教えたわけではありません。自分を大切にしてくれた人に、何かを返したかったのではないでしょうか。

もちろん、犬が小判の価値を知っていたかどうかは分かりません。ポチが「これは老後資金に役立つぞ」と考えていたら、それはそれで賢すぎます。いや、家計簿までつけ始めたら、もう犬ではなく経理部長です。

それでも、物語の中でポチが老夫婦を導いたことには意味があります。まごころを受け取ったものが、真心で応える。そこには誠心誠意(心をこめて真面目に向き合うこと)の循環があります。

老夫婦が穴を掘ると、大判小判がざくざく出てきます。まさに一攫千金(一度に大きな利益を得ること)の場面です。けれど、この場面をただ「よい人はお金持ちになりました」と読むと、少しだけもったいない気がします。

宝物は、やさしさの結果として出てきたものです。最初から小判をねらってポチを世話したのなら、物語のぬくもりは消えてしまいます。見返りを計算せずに手を差し伸べたからこそ、後から思いがけない花道が開いた。そこがこの話の気持ちよいところです。

暮らしの中にも、似たようなことがあります。

落とし物を拾って届けたら、相手がホッとした顔をした。少し疲れている人に声をかけたら、後日こちらが助けられた。家族のためにお茶を入れたら、何故かお菓子まで出てきた。これは少し違いますね。お菓子目的でお茶を入れ始めたら、動機が急に甘くなります。

それでも、人の世はそんな小さなやり取りで丸くなっていきます。ことわざで言うなら、「情けは人のためならず」です。人に向けたやさしさは、巡り巡って自分の暮らしもあたためる。正に、ポチと老夫婦の関係にピッタリの言葉です。

ポチの「ここ掘れワンワン」は、宝の合図でありながら、信頼の返事でもあります。

「助けてくれてありがとう」「ここに、あなたたちへの贈り物があるよ」

そんな声に聞こえてくると、土の中から出てきた小判より、ポチが老夫婦の傍で安心して鳴けたことの方が、ずっと尊く感じられます。

昔話の宝物は、金銀だけではありません。誰かを大切にした時間が、いつか別の形で光り出す。ポチが掘った穴の底には、そんな春のような真実が眠っていたのでしょう。

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第3章…欲ばりの灰が教える真似と真心の分かれ道

ポチが宝を教えてくれた話を聞いた欲ばりな老夫婦は、心がザワザワしたことでしょう。

「いいなあ」「うちにも小判が出ないかしら」「いや、あの犬さえいれば何とかなるはず」

気持ちは少し分かります。目の前で誰かが大判小判を掘り当てたら、心の中の小さなそろばんがカタカタ動き始めても不思議ではありません。人間ですもの。とはいえ、そのそろばんが暴走すると、物語は一気に怪しい方向へ走り出します。

欲張りな老夫婦は、ポチを借りて、同じように穴を掘らせようとします。けれど、出てきたのは宝ではなく、ガッカリするものばかり。ここで腹を立てるところが、昔話らしい勢いです。ポチからすれば「いや、信頼関係がまだですけど?」と言いたかったかもしれません。もし犬語の通訳がいたら、かなり気まずい現場になっていたはずです。

この場面の面白さは、「真似をしたのに同じ結果にならない」ところにあります。

真似そのものは悪くありません。料理も仕事も遊びも、最初は誰かの動きを見て学ぶことが多いものです。模倣(人の行動をまねること)は、成長の入口にもなります。けれど、形だけを真似て、そこにある思いや手順を抜かしてしまうと、結果はズレていきます。

レシピを見てカレーを作る時、材料を揃えずに「雰囲気でいける!」と鍋に投入したら、食卓に出るのはカレーに似た何かです。家族が静かにスプーンを置いたら、それは合図です。怒ってはいけません。鍋の方を見つめましょう。

同じことをしているように見えても、真心が入っているかどうかで、物語の行き先は大きく変わります。

欲ばりな老夫婦は、ポチを大切にしたかったのではなく、宝が欲しかったのです。老夫婦の目的は、ポチとの暮らしではなく、ポチの能力にありました。そこに信頼は育ちません。見た目は同じ「ここ掘れワンワン」でも、中身はまるで違います。

さらに話は進み、臼が燃やされ、その灰が残ります。やさしい老夫婦は、灰になってしまったものを粗末にしません。悲しみを抱えながらも、その灰を大切に持ち帰ります。そして、灰を撒くと枯れ木に花が咲く。ここに、物語の深いところがあります。

灰は、燃え残りです。終わってしまったもの、失われたもの、もう戻らないものの象徴にも見えます。ところが、真心を持つ人の手に渡ると、その灰が花を咲かせます。悲しみの中から新しい景色が生まれるのです。正に起死回生(ダメになりかけたものを立て直すこと)の場面です。

一方で、欲張りな老夫婦が同じように灰をまくと、お殿様の顔にかかってしまいます。満開の桜どころか、現場は大混乱。これがまた昔話らしい小さなオチです。本人たちは真剣だったのでしょうが、見ている側としては「そこに風向きの確認は必要でしたね」と言いたくなります。

ここで大切なのは、欲張りな人を笑って終わることではありません。

人は誰でも、上手くいっている誰かを見て、同じようにしたくなることがあります。あの人のやり方、あの家の暮らし方、あの職場の進め方。見習いたくなる気持ちは自然です。けれど、本当に見るべきものは、外から見える結果だけではありません。

その人がどんな気持ちで続けてきたのか?誰を大切にしてきたのか?どこで手間を惜しまなかったのか?

そこを見落とすと、花を咲かせるはずの灰が、ただの灰になってしまいます。

花咲かじいさんの物語は、欲張りを責めるだけの話ではなく、真似をするなら心の部分まで見たいね、とそっと教えてくれます。表面だけならすぐ真似できます。けれど、誠心誠意の積み重ねは、今日から少しずつ育てるしかありません。

桜を咲かせたのは、灰だけではなかったのでしょう。その灰を大切に扱った手と、失ったものを忘れない心が、春を呼び込んだのだと思います。


第4章…子どもに語る昔話は怖さよりぬくもりを残したい

『花咲かじいさん』を子どもに語る時、大人は少しだけ立ち止まりたくなります。

桜が咲く場面は明るく、ポチの「ここ掘れワンワン」は楽しく、欲ばりな人が失敗するところは分かりやすい。けれど、物語の途中には、子どもの心にズシンと響く場面もあります。ポチがひどい目にあう場面や、怒りにまかせた行動は、年齢によっては怖く感じるかもしれません。

昔話は、やさしいだけの砂糖菓子ではありません。苦さもあり、驚きもあり、時には「えっ、そこまでいくの?」と大人が声を飲み込む展開もあります。読み聞かせの途中で、親の方がページをめくる手を一瞬止める。ありますよね。子どもは先を知りたくて目を輝かせているのに、大人の頭の中だけ会議中です。

大切なのは、話の筋をきっちり伝えることだけではありません。

子どもの表情を見ながら、声をやわらかくしたり、少し言葉を丸めたり、悲しい場面の後に「でもね」と安心を添えたりすることです。情操教育(心や感性を育てる学び)として昔話を読むなら、怖さを強く残すより、最後に心が落ち着く形へ運んであげたいものです。

子どもに残したいのは、悪いことをしたら怖い目に遭うという不安より、やさしくすると誰かの心に花が咲くというぬくもりです。

もちろん、悪いことをして良いという話ではありません。欲張りな老夫婦の行いは、きちんと「それは困るね」と伝えて良いところです。ただ、そこを罰の話だけにしてしまうと、物語が少し窮屈になります。

「ポチはどんな気持ちだったかな」「やさしいおじいさんとおばあさんは、どうしてポチを大切にしたのかな」「花が咲いた時、みんなはどんな顔をしたかな」

こんな問いかけにすると、子どもは物語の中へそっと入っていけます。勧善懲悪(よい行いが喜ばれ、悪い行いが戒められる考え方)も大事ですが、その手前にある気持ちを味わうと、昔話はグッと深くなります。

子どもは、話の細かい筋よりも、語ってくれた人の声や表情を覚えていることがあります。寝る前の布団の中、保育室の静かな時間、祖父母の膝の傍。そういう場所で聞いた物語は、春の匂いのように心に残ります。

昔話を読む時に、完璧な語り手になる必要はありません。途中で言葉に詰まっても、登場人物の名前を間違えても、子どもは意外と許してくれます。むしろ「ポチじゃなくてモチって言った!」と笑われるかもしれません。犬がモチになったら、それはそれで臼との相性が良過ぎます。話が別方向へ転がるので、ほどほどに戻しましょう。

昔話は、家族や地域の中で語られてきた小さな灯りです。時代によって言葉を変えながらも、そこにある心は残っていきます。花鳥風月(自然の美しい景色や風情)を楽しむように、昔話もその季節の空気と一緒に味わえばよいのです。

春の桜を見た時、子どもがふと「枯れ木に花を咲かせましょう」と口にする。その横で大人が笑って、「ホントだね」と返す。

それだけで、物語はもう暮らしの中に根を下ろしています。

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まとめ…春の庭から日々の暮らしへ心の花を咲かせよう

春の枝に花が咲くと、人は少し足を止めます。

忙しい朝でも、買い物帰りでも、誰かを迎えに行く途中でも、ふと見上げた桜に心がほどけることがあります。花が咲いたから急に暮らしが変わるわけではないのに、その一瞬だけ、胸の中に小さな明かりがともります。

『花咲かじいさん』の物語も、そんな明かりを持っています。

ポチを大切にした老夫婦。真心に応えたポチ。灰になっても花を咲かせた思い。そして、形だけを真似してもうまくいかなかった欲張りな人たち。

この昔話が残してくれるのは、「良いことをしましょう」という真面目な教えだけではありません。日々の小さな親切や、誰かを思う気持ちが、やがて景色を変えることもあるのだという、あたたかな希望です。

花を咲かせる力は、特別な灰ではなく、誰かを大切にする手の中にあるのかもしれません。

もちろん、現実の暮らしでは、灰をまいても桜は咲きません。撒いた瞬間にご近所さんから「何してるんですか?」と聞かれる可能性があります。そこで胸を張って「花を咲かせようと」と答えたら、春より先に町内会議が咲きそうです。現代では、灰ではなく、声かけや笑顔や小さな気配りを撒くくらいがちょうど良さそうです。

子どもに語る時は、怖い場面をただ怖く残さず、最後にぬくもりが届くようにしたいものです。大人が読む時は、勧善懲悪の分かりやすさの奥にある、命への眼差しや信頼の育ち方にも目を向けたくなります。

和顔愛語(やわらかな顔とやさしい言葉で人に接すること)の心で暮らしていると、家の中にも、職場にも、地域にも、見えない花が少しずつ増えていきます。春風駘蕩(春の風のように穏やかなこと)とまではいかない日でも、誰かのひと言で空気がフッと軽くなることがあります。

桜は季節が来れば咲きます。でも、心の花は、誰かのやさしさで咲くことがあります。

『花咲かじいさん』は、春だけの昔話ではありません。疲れた日、上手くいかない日、少し気持ちが萎んだ日にも、「まだ咲けるよ」とそっと背中を押してくれる物語です。

今日の暮らしのどこかで、ほんの小さな花を咲かせられたら、それだけで十分素敵な一日になります。

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今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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