看取りの場所…どこで最期を迎えたいですか?病院・施設・在宅?それぞれの選択肢

[ 四季の記事 ]

はじめに…―“その日”は誰にでもやってきます―

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――「さて、どこで逝くか。」なんて、笑いながら話せるうちが華かもしれません。

人は誰しも、気がつけば人生の折り返し地点を過ぎていて、そこから先は、いつしか“お迎え”という言葉がリアルになってくる…。

それは決して恐ろしい話ではなくて、静かな午後にふと、あの人の背中を思い出すような、そんな優しい時間のはじまりなのかもしれません。

病院で点滴を受けながら、白衣に囲まれて最期を迎えるか。

施設の自室で、カーテン越しに他の利用者の笑い声を聞きながら逝くのか。

あるいは、縁側で湯呑みを片手に、家族の笑顔を見ながら…なんて、在宅の最期。

どれも現実的で、どれも選べそうで、実はなかなか選べない。

それに、多くの人は「選ぶ前に、気づいたらもう、そこだった」なんてパターンも多いのです。

でもね。

今、この文章を読んでいるということは、「選べるうちに、考えたい」と思ってくださっている証🩷。

だったら一緒に、一度きりの“人生のラストステージ”について、のぞいてみませんか?

そう、あの伝説のセリフ「人生は旅だ」と言うなら、終着駅でどんな風に降りたいかも、大切な選択肢のひとつ。

さぁ、お茶でも用意して、静かに穏やかに、でもちょっと笑いながら…。

人生のラストシーン、どこでどう迎えたいかを、のんびり語り合ってまいりましょう。

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第1章…病院で迎える最期は“安全”か?それとも“他人まかせ”か?


「やっぱり病院がいちばん安心じゃない?」

そう言っていたおばあちゃんが、ある冬の朝に救急車で運ばれ、酸素マスクを着けて、人工呼吸器とピッピッというモニター音に囲まれて横たわっていた。

病院――それは誰かが倒れたときに、真っ先に思い浮かべる場所。

何かあったら、すぐ診てもらえる。

なんとかしてもらえる。

そう信じられる場所だ。

けれど、高齢者の終末期が“なんとかなる”ことは、そう多くはない。

到着した基幹病院の中で、命は懸命に延命されるが、やがて医療は「治す」から「支える」に変わり、静かに次のステージへの橋渡しを始める。

それでも、病院には昼夜問わず医師がいて、看護師がいて、点滴やモニター、処置のできる設備が整っている。

もしものときも、処置は迷いなく行われるし、死亡診断書という絶対に必要な一枚の紙も、ここで確実に発行される。

…だけど、そこに家族の温度は、どれほどあるだろうか?

手を握りたいと思ったとき、面会は“10分まで”。

コロナ禍以降、その壁は思った以上に高く厚い。

酸素マスク越しの言葉は途切れがちで、「ありがとう」「もういいよ」が聞こえないまま日が暮れる。

最後に声をかけたのが看護師さんだった。

そんな話、決して珍しくない。

もちろん、何が正解ということではない。

医療の安心感、プロのケア、慌てなくて済む体制――それらが揃った病院の最期は、家族にとっても「納得しやすい」選択だ。

ただし、本人がその場で感じている空気の温度や、家族のぬくもり、それはもしかすると、どこか遠くなってしまうのかもしれない。

「もうちょっとだけ一緒にいたかった」

その気持ちは、多くの人が病院での看取りを経て、初めて気づくことなのかもしれない🩷。

最期を看取る場所は「正しい」かどうかじゃなく、「悔いが少ないかどうか」で選ぶもの。

その意味では、病院という場所は“安心と不完全さ”が両方、包み込まれているのだろう。

第2章…施設での看取りと“生活の延長”であることの意味とは?


ここは、日々の暮らしが静かに流れる場所。

テレビから演歌が流れ、折り紙が並び、介護士さんの「ごはんですよ~」の声が響く。

まさか自分が、ここで最期を迎えるなんて――そんなこと、入所当初に想像できる人はまずいない。

けれど、年月が経ち、体力が落ちて、食が細くなって、だんだんと笑顔が減ってきた頃。

施設のスタッフが、そっと家族を呼ぶ。

「そろそろ、看取りの契約を…」

そう、この場所では「看取り」もまた、契約事項なのである。

まるでケータリングか何かの追加オプションのように、静かに書類が差し出される現実。

施設というのは、生活の場であっても、医療の場ではない。

毎日医師が巡回するわけでもなければ、点滴も酸素も、病院ほどは使えない。

だからこそ、“命を支える”というより、“最期を見守る”という言葉が似合う。

では、そんな場所での看取りは“不幸”なのか?

それが、決してそうでもない。

家族は好きなときに面会できるし(コロナ対策のマスクは健在だけれど)、職員さんたちは顔馴染み。

人生のラストステージが、知らない天井やモニターの明かりではなく、慣れ親しんだ畳の部屋や、花柄のカーテンに囲まれているというのは、実はとても大きな意味がある。

けれど、それでも忘れてはいけないことがひとつ。

施設での最期は、「寄り添い」があっても「付きっきり」は叶わない。

職員の人数は限られているし、夜勤はたった1人。

その人がいまトイレ誘導中なら、ナースコールに応えられないこともある。

だから、息を引き取った時間が少しあやふやだったりする。

「さっきまで、元気だったんですよ」

その言葉が、妙に悲しい。

そして、後に来る事務処理――死亡確認、医師の到着、火葬手配。

涙を流す暇もなく「では〇〇時に搬送します」と運ばれていく、大切な人。

その姿を、淡々と見送る職員の目が、どこか痛ましく優しい。

施設での看取りとは、「ささやかな日常のなかに埋もれた最期」。

華やかではない。けれど、たしかに静かで、あたたかい。

その人が、その人らしくいた時間が詰まった部屋で迎える別れには、言葉にできない意味がある。

ただ、やっぱり。

出来ることなら、もう少し“マンパワー”があればと、心の底から思うのだ🩷。

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第3章…在宅で見送るという選択に“家族の覚悟”は必要ですか?


「やっぱり、最期は自宅がええなぁ」

そんな一言が、なんとなく現実味を帯びてきたある日、介護ベッドが届き、看護師さんが来て、台所の一角に薬がズラリと並び始めた。

おうちに、少しずつ“終わりの準備”が忍び込んでくる。

在宅の看取りは、覚悟と段取りの両方が要る。

昼は訪問介護が来て、夕方には訪問看護。夜中には、家族がふとんの脇で息を潜める。

でも、決して一人きりにはならない。

いざという時には、主治医が往診で駆けつけてくれる。

深夜でも、休日でも、電話一本で「今から向かいます」と答えてくれる医師の言葉は、どれほど心強いことか。

それは、病院にはない“名前を呼んでくれる医療”のあたたかさだ。

そして…その時が来たあと。

息を引き取った瞬間、静まり返った部屋にやってくるのは、訪問看護師。

バタバタした病院の一角ではなく、自宅の一室で、ゆっくりと、丁寧に、死後の処置が行われる。

髪を整え、口元をやさしく閉じ、シーツを整えながら、看護師さんはふと、「最期まで本当に、よく頑張られましたね」と声をかけてくれる。

その言葉に、堪えていた涙が崩れ落ちることもある。

そしてもうひとつ、在宅で看取るという選択には、“別れの時間”に制限がない。

面会時間は午後3時まで?

そんなものは存在しない。

本人が望むなら、何人でも、何時間でも、誰でも来られる。

幼馴染が来ても、昔の同僚が来ても、隣の奥さんが煮物を持ってきても、誰にもとがめられない。

そして、みんなが畳に座って、故人の話をぽつぽつ語り出す。

「ほんま、おせっかいやったけど、よう笑う人やったよなぁ」

そんな会話が、香典袋よりも、ずっと深い慰めになる。

家族にとって、在宅での看取りは、確かに負担も大きい。

けれど、“ゆるやかに、愛に囲まれて送る”という意味では、これ以上の形はないのかもしれない。

命を見送るという体験が、悲しみだけでなく、「その人らしさ」への感謝へと変わっていく🩷。

それは、病院でも施設でもなかなか味わえない、在宅ならではの“贈り物”なのだ。

第4章…“どこで看取るか”の裏側にある選ばされる仕組み


「どうしますか?」と聞かれた瞬間、すでに選択肢は限られている――そんな違和感、感じたことはないだろうか。

終末期を迎えたとき、多くの家族は“選べる”と思っている。

病院にするか、施設にするか、もしくは在宅か。

けれど現実には、選択肢は形ばかりで、実際には「そこしかないから」「今から間に合うのはそこだけだから」という理由で“自動的に”決まっていくケースがほとんどなのだ。

病院には機械がある。

検査もできる。

けれど人手が足りない。

患者のベッドサイドに人がいない時間のほうが、圧倒的に長い。

そのくせ、説明はしっかりされる。

「このまま内服薬で様子を見ましょうか」

「無理に点滴してもつらいだけですから」

家族の不安を“受け止める”というより、“方向づける”説明が並ぶ。

気づけば、やんわりと“延命しない”選択を薦められ、「本人のために」という言葉で、家族は納得したフリをして、静かに諦めていく。

一方の施設。

ここも人手不足は深刻で、しかも検査もできなければ、医師が毎日来るわけでもない。

薬は必要最低限、点滴は無理、酸素も病院ほどではない。

それでも“暮らしの場”として、穏やかに送れるはずだった。

…はず、だった。

ところが看取りが近づくと、「このまま施設で看取ることもできますが…」という、なんとも微妙な間を含んだ説明が入る。

家族が不安そうな顔をすれば、「ご希望であれば、病院へも…」と。

そう、“希望”という言葉を盾にして、判断を委ねるフリをして、責任をにじませない。

そして最終的に、「やっぱり病院に…」と家族が決めるように仕向けていく。

こうして、病院でも施設でも、“選択した”ようで“誘導された”選択がなされる。

しかも、多くの場合、その誘導は非常に丁寧で優しい。

誰かを責められないまま、ただ「仕方なかったんです」と自分に言い聞かせるしかなくなる。

それが、現代の看取りに潜む“構造の罠”だ。

本人がどうしたかったのか。

その想いよりも、シフトの都合やベッドの空き状況、制度上の枠組みの方が先に動く。

家族は、状況を前にただ“納得せざるを得ない”方向へ静かに誘われていく。

本人も、もう声をあげられない中で、誰かが「きっとこれが良かった」と、正解を後から作り上げていく。

でも、本当にそれでよかったのか。

「ここでいいか」じゃなくて、「ここがいい」と思ってもらえる選択肢だったか。

それを問い直す機会を持たないまま、日々は過ぎ、最期は静かに終わる。

だからこそ、大切なのは、“誰が決めたのか”を明確にすること。

選ばされたような選択に、後悔が残るのは当然だ。

選ぶのは、病院でも施設でも医師でもなく――本人と、家族。

その事実だけは、制度の向こうに押し流されてはいけない。

看取りの場がどこであれ、せめて“自分たちの意志で選んだ”と言えるように🩷。

その一歩が、人生の最終章に唯一残された、ほんとうの自由かもしれない。

第5章…“その時”のために――後悔しない準備と家族ができること


施設では、静かに物語の終わりが近づくと、まず「看取り契約」が始まる。

それはご本人の体調の変化、食事量の低下、血圧の推移――そんな日々の微細な兆候をもとに判断される。

だが、その水面下で何が進んでいるのか。

それは“次の人”の準備だ。

面談、判定会議、入居した後のシミュレーション、薬や医療体制のチェック…準備にはとても時間が必要になる。

ベッドの空き状況を確認し、部屋の移動予定を調整し、後ろで待つ“希望者”の顔ぶれが並ぶのに時間がかかるのだ。

命の灯がまだかすかに揺れている間に、もう次の灯をともす手筈は着実に常に進んでいるのだ。

鬼か?――いや、これは施設の運営という現実。

それでも、その空気を万が一、知ってしまった家族の心は、どうしようもなくえぐられる事態になることは想像に難くない。

だから、トップシークレットだ。

もし、家族が知ってしまったら…、施設側は想像してみたことがあるだろうか?

「あと何日、ここにいられるんだろう」

「看取られるのを待ってる誰かがいるなんて…」

でも、そんな気配を読み取る可能性があるのはたいてい、本人ではなく家族のほうで、ご本人は今日もテレビで時代劇を観ながら、熱い緑茶をすすっている。

こんな時代だからこそ、準備というのは、ただ物理的な段取りだけじゃ足りない。

本当に大事なのは、“その時”に向けて、家族がどう心を整えられるか。

誰と、どこで、どんな時間を過ごしたいのか。

本人の言葉を、まだはっきり話せるうちに引き出しておく。

「もしも」の話なんて縁起でもない、そんなこと言ってるうちに、“その時”は容赦なく来る。

そして、いざ病院や施設で選択を迫られた時、「これでいいか」ではなく「これがいい」と言えるために、医師や相談員の病院や施設都合、既定路線の“やさしい誘導”に流されず、「うちは、こうします」と言えるだけの、思考の下地を作っておく。

それが、後悔しない看取りの唯一の土台だ。

もちろん、完璧になんてできない。

体も心も、突然の出来事には簡単に揺らぐ。

それでも、“何も知らずにただ従う”のと、“分かった上で選び取る”のとでは、悲しみの本質がまるで違う。

自分の人生のラストシーンを、誰かに書いてもらうのではなく、少しだけ、自分たちで筆を握っておく🩷。

それが、「ごめんね」ではなく「ありがとう」で終われる看取りへの、いちばんの近道なのかもしれない。


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まとめ…“最期の時間”をどう生ききるか?その答えはひとつじゃない…


人が人生の幕を閉じるとき、それは一冊の本の最終ページ。

しかしそのページをどう綴るかを、実は本人も、家族も、きちんと考えたことがないままに迎えることが多い。

病院、施設、在宅――そのどれを選ぶにしても、最後の一行を誰が書いたのかで、その物語の余韻は大きく変わる。

病院であれば、設備は整っているけれど、面会には時間制限がある。

施設であれば、慣れ親しんだスタッフはいても、医療の限界がある。

在宅であれば、自由はあっても、責任は重くのしかかる。

それぞれの場所に、それぞれの「いいところ」と「しんどさ」がある。

でも、どこを選ぶにしても、本当は“場所”の問題ではないのだ。

大切なのは、“どう過ごしたいか”を、言葉にしておくこと。

“誰と迎えたいか”を、共有しておくこと。

「こんな風に逝きたい」という、ほんの一言の願いが、残された人にとっては羅針盤になる。

そして、医師でも施設長でもなく、その人の一番近くにいる家族が、それを支える存在であってほしい。

現代の看取りは、どこかで“仕組みの都合”に押し流されがちだ。

でもそれを、“当たり前”として受け入れないでいい。

たった一度きりの、最期の時間だからこそ、もっと丁寧に、もっと“その人らしく”あるべきだ。

人は、最期に一番近くにいた人を、きっと一生忘れない。

その手を握ったぬくもりも、あの時の言葉も、まなざしも。

だからこそ、看取りというのは、“死”ではなく、“生ききる”という物語の完成形なのかもしれない。

どんなに迷っても、どんなに悩んでもかまわない。

最期まで、人の命と向き合ったという記憶が、きっと残された者の“生きる力”になる。

今日このページを開いたあなたが、誰かの人生を最期まで見届ける覚悟を、少しでも持ってくれたのなら。

それがきっと、もう一つの“ありがとう”の始まりになる🩷。

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  • コメント ( 2 )

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  1. いくっち♪

    ランキングから訪問させていただきました(^^♪

    しっかりと元気なうちに、話して決めておく事が大切ですね。
    聞けなくなってからでは遅いですよね。

    • niiro makoto

      新納です。
      ご来場ありがとうございました。
      元気な頃は実感が無くて聞けないこともあります(*^▽^*)
      是非、お相手ファーストで思いやる心を大切にしてみてくださいね。
      真心はきっとお話が出来なくても伝わる…そんな世界だといいなぁと私は確かめようもない妄想をしています(*^▽^*)
      また是非、ご意見をくださいねm(__)m