最期を迎える場所は人生を閉じる場所ではない~病院・施設・自宅から考える家族会議~
はじめに…「どこで逝きたい?」は「どう生きたい?」から始まる
夕食後、テレビを見ていた親が、湯呑みを置きながらポツリと言う。
「最期は、やっぱり家がええかなあ」
その瞬間、家族の箸が止まります。いや、その話、味噌汁が冷める前に始めます?――と心の中でツッコミを入れたくなりますが、こうした何げない一言は、とても大切な本音かもしれません。
病院なら、医師や看護師が傍にいて、体調が変わった時にも対応してもらえます。施設なら、顔なじみの職員や慣れた部屋に囲まれ、暮らしの続きとして穏やかな時間を過ごせます。自宅なら、家族の声やいつもの匂いの中で、自分らしい毎日を最後まで守れる可能性があります。
ただし、どの場所にも安心があり、同時に難しさもあります。医療の充実だけでは決められず、家族の愛情だけで何もかも乗り越えられるわけでもありません。暮らし方も体の状態も十人十色ですから、誰かにとって良かった選択が、別の家族にも合うとは限らないのです。
看取りの場所を考えることは、死を急ぐことではなく、最後までどう生きたいかを確かめることです。
平穏無事な日ほど、こんな話は後回しになりがちです。それでも、元気に笑って話せる今なら、「延命治療はどうしたい?」「誰に傍にいてほしい?」「好きな音楽は流していい?」と、重くなり過ぎない家族会議ができます。最後の質問だけ急に披露宴の打ち合わせのようですが、本人らしさとは、そんな小さな希望の中に宿るものです。
場所の名前を先に決めるのではなく、どんな時間を送りたいのかを言葉にしてみる。そこから、病院・施設・自宅という3つの選択肢が、少しずつ自分たちの暮らしに近づいてきます。
[広告]第1章…病院・施設・自宅にある3つの安心と3つの難しさ
「具合が急に悪くなったら、やっぱり病院でしょう」
そう考えるのは自然なことです。病院には医師や看護師がいて、検査や点滴、酸素投与など、体調の変化にすぐ対応できる設備があります。夜中に息苦しさが出ても、家族だけで判断を抱え込まずに済む。この医療体制は、本人にも家族にも大きな安心を与えてくれます。
けれど、終末期(病気や老いによって人生の終わりが近づいた時期)になると、医療の目的は「治すこと」から「苦しさを和らげること」へ、少しずつ移っていきます。緩和ケア(痛みや息苦しさ、不安を軽くする支援)が中心になれば、機械や処置が多いことだけで、心まで穏やかになれるとは限りません。
面会できる時間が短かったり、家族が傍にいられない時間が長かったりすることもあります。モニターの音は頼もしいのですが、ピッ、ピッ、ピッと鳴るたびに、こちらの心まで点検されている気分になります。異常なしの判定、家族にもください――と頼みたくなる夜もあるでしょう。
施設の安心は、医療設備よりも「いつもの暮らし」にあります。顔馴染みの職員、見慣れた天井、普段使っている湯呑み。廊下から聞こえる食事の声や、隣の部屋のテレビまで、その人が暮らしてきた日常の一部です。
その一方で、施設は生活の場であり、病院と同じ医療を行える場所ではありません。医師が常にいるとは限らず、夜間は少ない職員で多くの人を支えています。職員が心を込めて寄り添っても、ずっと枕元に付き添うことは難しい。穏やかな日常が守られる安心と、急な変化への対応に限界がある難しさが同居しています。
自宅には、自分の布団、自分の窓、自分の家族があります。食べられる時に好きな物を少し口にし、眠りたい時に眠り、会いたい人に会える。時間割に合わせるのではなく、その人の呼吸に暮らしを合わせやすいことが、自宅で過ごす大きな良さです。
訪問看護(看護師が自宅を訪れて療養生活を支えるサービス)や往診を利用すれば、家にいながら医療や看護を受けることもできます。ただし、支援者が帰った後の時間は、家族が不安や変化と向き合うことになります。夜中に何度も呼吸を確かめ、「寝ているだけ? 大丈夫?」とこちらが眠れなくなることもあるでしょう。
病院、施設、自宅には、それぞれ違う安心があり、同じ数だけ難しさがあります。正に一長一短であり、場所の名前だけを比べても、家族に合う答えは見つかりません。
大切なのは、設備の多さだけではなく、その場所で誰が傍にいられ、困った時にどんな支えを受けられるかを知ることです。
「備えあれば憂いなし」とはいっても、最期の時間を予定表通りに進めることはできません。それでも、医療職や介護職と相談し、体調の変化に応じて臨機応変に選び直せる準備があれば、「最初に決めたから変えられない」と思い込まずに済みます。
家族会議を始めた途端、誰かが冷蔵庫のプリンの話へ逃げるかもしれません。今その話?――となりますが、重たい話を少しずつ口にできるなら、それも悪くない始まりです。
第2章…大切なのは場所の名前より誰とどんな時間を過ごせるか
最期を迎える場所を考える時、私たちはつい「病院か、施設か、自宅か」という3択に目を向けます。
けれど、本人の心に残るのは、建物の名前よりも、その場所で流れていた時間なのかもしれません。
病院の個室であっても、家族が手を握り、好きだった歌を小さく口ずさめるなら、そこには穏やかな時間が生まれます。反対に、自宅で過ごしていても、家族が不安で張り詰め、誰も本人へ声をかけられなければ、「家に帰れた」という事実だけでは心細さが残るでしょう。
施設にも同じことが言えます。毎朝声をかけてくれる職員、食事の好みを知っている調理員、昔話を何度も聞いてくれた隣席の人。そうした顔馴染みとの関係は、立派な医療機器とは違う形で、その人を支えています。
「今日はプリンを半分食べましたよ」
家族が面会に来た時、職員からそんな報告を受けることがあります。たった半分と思うかもしれませんが、食が細くなった時期には、拍手したくなるほどの出来事です。そこで本人が「全部食べた」と胸を張れば、職員と家族は顔を見合わせます。お皿には半分残っているのですが……まあ、気持ちは完食ということでヨシとしましょう。
終末期には、食べる量や話す言葉が少なくなり、眠っている時間が増えていきます。だからこそ、意思疎通(考えや気持ちを互いに伝え合うこと)が難しくなる前に、本人が心地良いと感じるものを知っておくことが大切です。
静かな部屋が好きなのか。家族の会話が聞こえる場所が落ち着くのか。手を握って欲しいのか、そっと眠らせて欲しいのか。好きな香りや音楽、会いたい人、避けて欲しい処置まで、希望は人それぞれです。
こうした願いは、豪華な設備がなければ叶わないものばかりではありません。カーテンを少し開ける、愛用の毛布を持ってくる、孫の写真を枕元に置く。小さな工夫でも、その人らしい空気を作ることができます。
看取りで守りたいのは、命の長さだけではなく、その人が安心して過ごせる時間の質です。
家族にとっても、誰とどんな時間を過ごせたかは、その後の心に残ります。何を話せばよいか分からなくても、そばに座っているだけでかまいません。昔の失敗談を話して笑ったり、手を握ったまま一緒に居眠りしたりする時間も、立派な付き添いです。
一日千秋の思いで回復を願う時もあれば、苦しさが少ないことを静かに願う時もあります。家族の気持ちは朝令暮改になって当然です。昨日は「少しでも長く」と思い、今日は「もう頑張らなくていい」と感じる。その揺れは、愛情が足りないからではありません。大切な人を失いたくない心と、苦しませたくない心が、同じ胸の中にあるからです。
病院でも、施設でも、自宅でも、「この場所なら絶対に後悔しない」という保証はありません。それでも、本人の好きな物や望む過ごし方を知り、家族と支援者が同じ方向を向ければ、場所に左右され過ぎない時間を育てられます。
看取りの場所を決める話は、引っ越し先を選ぶ話とは違います。駅から徒歩何分、日当たり良好、近所にスーパーあり――そんな物件情報だけでは決まりません。必要なのは、最後まで誰と繋がり、どんな空気の中で過ごしたいかを思い描くことです。
その答えが見えてくると、病院・施設・自宅という選択肢は、ただの場所ではなく、その人らしい時間を支える器へと変わっていきます。
[広告]第3章…選んだつもりが選ばされる?~看取りを動かす医療と介護の事情~
「ご家族としては、どこで最期を迎えて欲しいですか?」
そう尋ねられると、病院・施設・自宅の中から、自由に選べるように感じます。
けれど、その時点で既に、病院の受け入れ状況、施設の医療体制、自宅を訪問できる医師の有無、家族が介護できる時間などによって、進める道が細くなっていることがあります。3つの扉が並んでいると思ったら、2つには小さく「本日休業」と書かれていた――笑えないようで、実際には起こり得る話です。
病院では、検査や処置を受けられる安心があります。ただ、病状が回復しにくい段階になると、積極的な治療を続けるのか、苦痛を抑える医療へ切り替えるのかという判断が必要になります。
家族は突然、難しい説明を受けます。
「点滴を続けても、体への負担が増える可能性があります」
「心肺蘇生を行うか、決めておいてください」
心肺蘇生(止まった心臓や呼吸を再び動かそうとする処置)という言葉を聞いただけで、頭の中が五里霧中になる人も少なくありません。命に関わる決断なのに、落ち着いて考えられる時間が十分にないこともあります。
施設では、慣れ親しんだ場所で過ごせる反面、行える医療に限りがあります。常勤の医師がいない施設や、夜間の職員が少ない施設では、急な変化に備えて病院への搬送を提案される場合があります。
「施設でも看取れますが、ご心配なら病院へ」
丁寧で優しい言葉です。それでも、不安でいっぱいの家族にとっては、「病院を選ぶ方が安全ですよ」と聞こえることがあります。家族が決めた形になっていても、実際には周囲の説明や空気に押されていた、ということもあるでしょう。
自宅を望んでも、すぐに実現できるとは限りません。往診してくれる医師や訪問看護、介護サービスを揃え、夜間の連絡方法も確認する必要があります。家族の仕事や体調、住まいの環境によっては、自宅で支え続けることが難しい場合もあります。
誰かが悪意を持って選択肢を狭めているとは限りません。医療職も介護職も、限られた人員と設備の中で、事故や苦痛を減らそうとしています。家族もまた、本人を思うからこそ迷います。それぞれが真剣だからこそ、話が一方向へ進んでしまうことがあるのです。
「選べます」と言われた時ほど、何ができて、何が難しいのかを具体的に確かめることが大切です。
「施設に残る場合、夜間は誰が対応しますか?」
「病院へ移ると、家族はどのくらい面会できますか?」
「自宅へ戻るには、どんな支援が必要ですか?」
こうした質問は、相手を疑うためのものではありません。本人と家族が納得できる道を見つけるための確認です。
その場で答えを出せない時は、「家族で少し話す時間をください」と伝えて構いません。医師や相談員の前に座ると、何故かテストを受けている気分になりますが、看取りに模範解答はありません。早押しボタンも、正解の効果音も鳴らないのです。
状況によって選択肢が変わるなら、決定も臨機応変に見直せます。最初は施設で過ごし、苦痛が増えたら病院へ移る。病院で症状が落ち着いた後、自宅へ戻る道を探す。1つ決めたら最後まで変えられないわけではありません。
本人の希望と現実の条件を照らし合わせながら、「誰かに決められた道」ではなく、「自分たちで確かめて選んだ道」に近づけていく。その過程が、看取りの後に残る後悔を少し和らげてくれます。
第4章…元気な日の家族会議が人生の最終章をその人らしくする
昼下がり、家族でお茶を飲んでいる時に、親がテレビを見ながら言います。
「延命治療はせんでええからな」
家族は少し困り、「うん、分かった」と答えます。ところが、いざ詳しく聞こうとすると、「縁起でもない話をするな」と怒られる。いや、話を始めたのはそちらです――と心の中で静かにツッコミを入れるまでが、家族のあるあるです。
それでも、この短い会話には大切な入口があります。
「延命治療は望まない」と言っても、痛みや息苦しさを和らげる処置まで断りたいとは限りません。「自宅がいい」と願っていても、家族に無理をさせてまで帰りたいのか、体調が急変した時には病院へ運んで欲しいのかまでは分かりません。
本人が話せなくなってから、家族がその空白を埋めようとすると、「あの人なら、どうしただろう」という迷いが残ります。だから元気な日の会話では、場所だけでなく、何を大切にしたいのかを少しずつ聞いておきたいところです。
食べられなくなった時に点滴を望むのか。心臓が止まった時に心肺蘇生を受けたいのか。意識がなくなった時、誰に判断を任せたいのか。会いたい人や聴きたい音楽はあるのか。
全てを一度で決める必要はありません。アドバンス・ケア・プランニング(将来の医療や介護について本人と周囲が繰り返し話し合うこと)は、重たい家族会議を一度開いて終了、というものではないからです。
誕生日やお盆、入院から戻った日など、家族が集まった時に少し話す。本人の考えが変わったら、そのたびに書き直す。昨日は自宅が良かったけれど、今日は「病院の方が安心」と思うかもしれません。気持ちが変わるのは優柔不断ではなく、体調や経験に合わせた臨機応変な選択です。
家族会議で残しておきたいのは、動かない答えではなく、本人が何を大切にして選ぶ人なのかという道しるべです。
そして、この話し合いは本人だけを守るものではありません。
本人の意思を知っていれば、家族は難しい判断を迫られた時に、「私が命を決めてしまった」と1人で背負わずに済みます。「父は苦しい処置を望まなかった」「母は家族が無理をしないことを気にしていた」と思い出せれば、本人の代わりに決断するのではなく、本人の願いを繋ぐ立場になれるのです。
話した内容は、日付と共に1枚の紙へ残しておくと役立ちます。本人、家族、かかりつけ医、ケアマネジャーなどが同じ内容を知っていれば、急な入院や体調変化が起きても話が途切れにくくなります。準備万端とまではいかなくても、連絡先と希望が1枚にまとまっているだけで、慌ただしい夜の心細さは違ってきます。
家族全員が和気藹々と賛成するとは限りません。長男は病院、次女は自宅、本人は「みんなに任せる」と言ってテレビへ戻る。任された側は困ります。せめて、何を任せたいのかだけは教えてください――となるでしょう。
意見が割れた時は、誰が正しいかを競うのではなく、「本人が嫌がっていたこと」「本人が大切にしてきたこと」へ戻ります。答えを場所から探すのではなく、その人の人生から探すのです。
元気な日に交わした何げない言葉は、遠い未来の家族を支える小さな手紙になります。その一言が残っていれば、人生の最終章は誰かに決められた結末ではなく、本人らしさが最後まで続く時間へ近づいていきます。
[広告]まとめ…正解を決めるより「これで良かった」と思える時間を育てよう
最期を迎える場所には、それぞれ違う安心があります。
病院には、医療をすぐ受けられる心強さがあります。施設には、顔馴染みの職員や慣れた暮らしがあります。自宅には、家族の声やいつもの景色に包まれて過ごせる自由があります。
その一方で、病院には面会や生活の制限があり、施設には医療や人員の限界があり、自宅では家族の負担や夜間の不安が大きくなることがあります。どこか一か所を選べば、万事解決という話ではありません。
だからこそ、場所を決める前に考えたいのは、「どこなら安心か」だけではなく、「どんな時間を最後まで守りたいか」ということです。
痛みや息苦しさを少なくしたい。家族の声が聞こえる場所にいたい。知らない人に囲まれるより、顔馴染みの職員に声をかけて欲しい。家族へ無理をさせたくない――。こうした願いを知っておけば、状況が変わっても、その人らしさを見失いにくくなります。
看取りで大切なのは、完璧な場所を探すことではなく、本人の願いを置き去りにしないことです。
元気な時に話し合っていても、実際の場面では家族の心が揺れます。「少しでも長く生きて欲しい」と思った直後に、「もう苦しまなくて良いよ…」と願うこともあるでしょう。それは矛盾ではありません。どちらも、大切な人を思う気持ちから生まれています。
話し合った通りに進まないこともあります。病院の受け入れ、施設の体制、訪問診療の有無など、本人や家族だけでは動かせない事情もあるからです。それでも、医師や介護職へ質問し、家族で考え、本人の思いに立ち返ることは出来ます。
迷った時に「父なら何を嫌がるだろう?」「母は何を大事にしてきただろう?」と考えられれば、選択は誰かに押しつけられたものではなくなります。一期一会の時間だからこそ、正解の形より、向き合った過程が心に残るのです。
そして、看取りが終わった後、家族は何度も振り返ります。
「あれで良かったのかな…」
その答えがすぐに出ないこともあります。けれど、手を握ったこと、名前を呼んだこと、本人の願いを守ろうと家族で話したことは、決して消えません。
しんみりした家族会議の最後に、本人が「ところで晩ご飯は何?」と聞くかもしれません。それで良いのです。最期の話をした日にも、お腹は空きます。人生とは、深い話と今夜のおかずが同じ食卓に並ぶものなのでしょう。
病院でも、施設でも、自宅でも、その人らしく生きた時間があれば、そこは大切な居場所になります。「ごめんね」だけで閉じるのではなく、「一緒にいられて良かった」「ありがとう」と言える時間を、今日の何げない会話から育てていきましょう。
[ 広告 ]今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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コメント ( 2 )
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ランキングから訪問させていただきました(^^♪
しっかりと元気なうちに、話して決めておく事が大切ですね。
聞けなくなってからでは遅いですよね。
新納です。
ご来場ありがとうございました。
元気な頃は実感が無くて聞けないこともあります(*^▽^*)
是非、お相手ファーストで思いやる心を大切にしてみてくださいね。
真心はきっとお話が出来なくても伝わる…そんな世界だといいなぁと私は確かめようもない妄想をしています(*^▽^*)
また是非、ご意見をくださいねm(__)m