惰性を超える瞬間は総力戦で叶える!五感を揺さぶる流れるピタゴラ式七夕前夜祭

目次
はじめに…それはある梅雨の昼下がり食堂の天井を見上げながら始まった
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それは、なんというか、じと〜っとした梅雨の午後のことだった。
高齢者施設の食堂では、今日も穏やかな午後のお茶の時間。
空調はやや強め、カレンダーには「来月七夕」とだけ手書きされ、天井を見つめる職員の視線は完全に“心ここにあらず”状態。
思わず口からこぼれるのは、「七夕って、流しそうめんやるだけでいいんだっけ…?」という、イベントマンネリ界の代表フレーズ。
そんな中、ある職員がつぶやいた。「今日って、グラスタワーの日なんですね」
――なんのこっちゃ?と周囲が首をかしげる中で、スマホで調べてわかったのは、
6月22日は、あのガラス製の積み上げタワーをきれいに眺める“視覚の記念日”でもあった、という事実。
その瞬間、ひとつのアイデアがピキーンと走った。
「見て楽しいって、めっちゃ大事。じゃあさ、水とか光を流したらどうなる?」
誰もが心の中ではわかっている。
「変化をつけたい」「目を輝かせてほしい」――でも、日々のルーチンは侮れない。
掃除、記録、会議、そして“職員Aあるある”といえば、イベント係にだけやたら仕事が集中してる件。
そんなとき、ある若手職員がポツリとつぶやいた。
「水って、流れるだけでも面白いですよね。ピタゴラスイッチみたいに…🩷」
場は一瞬しん…と静まりかえったが、その後に続いたのは、職員Bの「それ、施設でできたらすごくない?」という予想外の食いつき。
そして、事務長がなぜか無言で立ち上がり、冷蔵庫の上からアロマスプレーを取り出したところから、すべてが始まった。
こうして、七夕の前哨戦にして、五感を刺激する流れるレクリエーションが爆誕する。
この物語は、単なるレクリエーション企画ではない。
惰性という名の平和な日常に、風穴をぶち抜き、総力戦でひとつの夢を形にする、ちょっと不器用で、でもめちゃくちゃ楽しい挑戦の記録である。
第1章…レクの常識に風穴を開けたい!惰性が悪魔のように囁く日々
「レクリエーションですか?あ、はい。来月は七夕なので、定番の短冊と流しそうめん、やりますよ~。ええ、いつものやつです、いつもの。」
――こんな会話、介護業界のどこかで誰かが、たぶん今日も言っている。
施設レクあるある、なのだ。
行事って、慣れれば慣れるほど、なんとなく形が決まってくる。
安心感?もちろんある。
でもそこには、薄くて見えづらい“惰性”という名のベールがかかってくるのも事実だ。
やがてそのベールは日々の業務にしっかり溶け込み、イベント準備もスケジュールも「なんとなく去年通りで」が合言葉となる。
そう、それが悪魔のささやきだ。
「あぁ、今年も無難に終えたいな…」
「ちょっと冒険したら、また“誰が責任取るの?”になるし…」
「ほら、レクって“事故さえなきゃOK”みたいな空気あるよね…?」
――これが、現場のリアルだったりもする。
もちろん、否定する気はない。
事故防止、体調管理、スタッフの配置…命を預かる現場にとって“安全第一”は当然の鉄則だ。
だけど、その鉄則が時として、“挑戦回避の言い訳”になってしまう瞬間があるのも、また事実。
「事故は起こさない」ことに集中するあまり、「喜びは生まれない」まま、イベントが終わってしまう。
そして、「なんか、去年と同じだね」「まぁまぁ、悪くなかったよね」で流れていく日常。
……ねぇ、そんな七夕、ワクワクする?
そう、そこに風穴を開けたくて仕方がなかったのだ。
せっかく食堂という「みんなの場所」があるのに、なぜ一方向だけを見るレクばかり?
せっかく水が流れるだけで人は見惚れるのに、なぜ流さない?
せっかく音と光と香りが使えるのに、なぜ五感を眠らせたまま?
そんな思いが胸のどこかでムズムズと暴れ出して、
「ねぇ、ピタゴラスイッチ的なの、作れないかな?」とつぶやいたのが始まりだった。
…いやいや、無理でしょ?
職員足りないし、材料ないし、時間も人手も予算も…ってツッコミは一通り、頭の中で回った。
でも、不思議なことに“やってみたい”という想いの方が勝ってしまったのだ。
たぶんそれは、レクという名の習慣に、少し飽きていた証だったのかもしれない🩷。
次第に、「水を流すだけでも楽しいよね」から、「それ、LEDで光らせよう」へ。
「音が鳴ったら面白いよね」から、「クラッカー鳴らすか!風鈴もあるぞ!」へ。
アイデアは、まるで水のように次から次へと流れ出してきた。
職員の誰かが言った。「…やばい、ちょっと本気でワクワクしてる自分がいるんだけど」
そう、悪魔のささやきが吹き飛ぶ瞬間だった。
第2章…そうだ全てを水を流そう!ピタゴラスイッチと五感の融合という禁断の果実
「水に流す」。
なんとまぁ、日本人らしい、美しくて都合の良い言葉だろうか。
小さな失敗も、うっかりの愚痴も、うやむやになった書類の提出遅れも――いや、それはダメか。
とにかく、水がすべてを洗い流してくれるような感覚。それはまさに、穏やかな人間関係と、梅雨明けが待ち遠しい季節の風物詩。
でも今回、水に流したいのは、レクのマンネリだった。
毎年「これでいいじゃん」と済ませてきたあれこれを、今こそ水で押し流して、新しい楽しさを引き寄せたい。
そう、レクは流しそうめんだけじゃない、「流す」という行為そのものが楽しいのだ!
そこで登場するのが、そう――ピタゴラスイッチ。
元々はテレビで子どもたちを夢中にさせていた教育番組だが、これ、大人の心にも刺さるんですよね。
いや、むしろ大人だからこそ、「うおっ…動いた…!」「うわ、つながった!」というあの瞬間にグッとくる。
あれ、もはや現代のからくり人形です。
「水がたまると重みで引っ張られて、紐が動いて、パネルが立ち上がって、そこに光が当たって…」
そう語る職員の目は、いつの間にかキラキラしている。まるで竹に願いを込める短冊のような純粋さ。
ここに音を足せば?香りを加えたら?触って選ぶ楽しさは?
…もう、脳内でレクリエーションが夏祭りレベルになっている。
そして気づいたのだ。
これ、ただの「からくり」じゃない。五感すべてを巻き込んだ、日本型・多感覚レクの再発明なのだと。
まず視覚。
水の流れ、光の反射、パネルの動き――これはもうアート。
次に聴覚。
クラッカー、鈴、風鈴、流れる音、職員のドヤ顔実況。
嗅覚にはアロマ。笹の香り、柚子、ミント、季節を感じる香りたちが、会場を包む。
触覚は折り紙や短冊や笹舟を救い上げる瞬間の、水の冷たさ。
そして味覚は…その先に待っている七夕本番のそうめんで、しっかり完結させるのだ。
つまり、これは一過性のレクではない。
**七夕の物語へと自然につながっていく“序章”**なのである🩷。
ピタゴラスイッチは、偶然を仕組みに変えるアートであり、
福祉施設における“奇跡の連鎖”を体験させる、最高の装置だ。
こんなものを準備しはじめた時点で、もう職員たちは日々の惰性から一歩抜け出している。
「ただのレク」だったはずが、気づけば全員の気持ちが動いているのだ。
そう、まさに流れる水のように、やさしく、でも止まることなく。
「これ、マジでやるの?」
「…うん、もう、やるしかないよね」
そう言って笑いあった瞬間、
施設の中で、一番最初に流れ出したのは、きっと水ではなく――職員の心だったのかもしれない。
第3章…理事長が部長が事務長…ついに現場が動いた!施設が一体となる奇跡の瞬間
介護施設で日々を支えているのは、もちろん現場のスタッフたちである。
介護士、看護師、リハ職、栄養士、清掃スタッフ、相談員。
彼らこそが、日常の一秒一秒を守っている。
だからこそ、現場にはひそかにこう囁かれている言葉がある。
「理事長が語る介護は、もはやフィクションである」と――。
もちろん、理事長が悪いわけではない。
ただ、現場を“経営”する目線と、“体を使って支える”目線の間には、どうしても埋まらない川があるのだ。
部長は部長で数字を見つめ、事務長は事務長でエクセルに祈りを捧げる日々。
介護とは、語るものではなく、向き合うものなのだ。
だからこそ、こうしたピタゴラスイッチ式イベントに、経営陣が積極的に関わる可能性は、通常ゼロに等しい。
……はずだった。
ところが今回は違った。
「これは、やったほうがいいんじゃないか」と、まさかの理事長が言い出したのだ。
どの書類にそれが記載されていたのかは定かではないが、なぜか理事長の引き出しには新品のクラッカーが入っていた。
「どのタイミングで鳴らすんですか?」と聞かれて、
「水が流れたらかな?」と、本人すら曖昧だったが、周囲は驚きを通り越して「…あの理事長がクラッカーを持っている…!」とざわついた。
事務長はというと、
「音のタイミングは私が責任持ちます」と謎の情熱を見せ、その夜、家で楽天にて鈴を4種類購入した形跡がある。
部長は「BGMを自前で用意した」と言って、なぜか古いカセットデッキを持ってきたが、再生ボタンが壊れていた。
そう、このとき、彼らはまだ“戦力”にはなっていなかった。
でも、それでよかったのだ。
戦力じゃなくていい、味方であればいい。
この「水が流れるだけの奇祭」を、一緒に信じてくれる存在がいるという事実が、何よりも現場の背中を押してくれたのだから。
普段は会議室の空気のように無風で、「お、いいですね」と言ってそのまま消える提案ばかりを見送ってきた職員たち。
けれど今回ばかりは違った。
理事長がクラッカーを持って立ち上がり、部長がフィニッシュ地点の照明に目を輝かせ、事務長が鈴の順番を本気で悩む――
誰かが変われば、空気は変わるのだ。
こうして、介護のことを「現場より上手に形だけ語ってしまうことがある」あの人たちが、言葉ではなく参加するという行動で、職員の想いに乗っかってきた。
そのとき食堂には、光と音と水と、そして笑いが満ちていた。
これは、レクというよりもう、ほとんど「公演」である。
施設全体が、ひとつの舞台だった🩷。
誰もが予想しなかった展開の中、ピタゴラスイッチは少しずつ完成へと近づいていく――
この先に待っている“あの流しそうめん”へ向けて。
第4章…香るアロマに響く風鈴と光る水路~誰がここを老人ホームだと気づくだろうか?
その日、食堂はもう“食堂”ではなかった。
いつもなら、食器の音が静かに反響し、ちょっとだけ乾燥した空気に、お茶の香りがふわりと漂うあの空間が――
こ
の日は、まるでどこかの涼やかな日本庭園か、隠れたアートギャラリーか、いや、もはや水の精が棲んでいそうな世界だった。
最初に感じたのは香りだった。
笹の葉に似た青竹のようなアロマがふわりと漂うと、利用者さんがふと顔を上げた。
扇風機でふわりと舞う風が、香りをやさしく拡散させる。
すぐに違う香りが現れてはすっと消える。柚子。ラベンダー。最後にはミント。
“季節を旅する風”みたいな演出に、普段無口なあの人が「いい匂いね」とつぶやいた。
職員全員が心の中で小さくガッツポーズを決めたのは言うまでもない。
やがて、「チリーン」と鈴の音が鳴った。
誰が鳴らした?――いや、違う。
これは水が流れて、あるポイントにたまった重みで、糸が引かれて風鈴を揺らした音。
そう、**“仕掛けたわけではない、起こした音”**だ。
音は予告であり、演出であり、やがて歓声につながる信号だ。
風鈴、鈴、クラッカー――まるで五感のオーケストラ。
その音に反応するように、視線が左右に動く。
思わず後ろを振り返る利用者さんがいて、職員はその首の可動域に感動していた。
「いいですね!首がしっかり回ってますよ〜!」とPTが言っていたが、たぶんそれは医療的観察というより、心の拍手だったに違いない。
そして光。
透明な水路に水が流れ出すと、それをLEDが照らし出す。
青、緑、金色、ほんの少しピンク――
色水ではなく、あくまで透明な水そのものが、光を身にまとって美しくなる演出。
「キレイだね」「これ、施設なの?」そんな声が次々に上がる。
ええ、そうです、ここは“あの”老人ホームです。
でも今日だけは、誰が来ても「ここ、ほんとに施設?」と首をかしげるレベルに変貌していた。
折り紙や笹舟がそっと流れていく。
水に浮かび、くるくる回りながら、流れ着く小さなプール。
そこには、利用者さんが自分で拾い上げて、手にとって、「これ、私の!」と笑顔でテーブルの上に飾るコースターが用意されている。
触れて、選んで、飾って、眺めて――“見るだけ”では終わらせない五感の演出が、ここにあった。
このレクは、一見ただの“水の流れる遊び”に見えるかもしれない。
でも、その実態は、五感すべてを優しく刺激し、心と体の両方をゆさぶる、とてつもなく緻密に計算された総合芸術である。
老人ホーム?いや、違う。
今日だけは、ここは“世界一おしゃれな流しそうめん予行練習会場”だ。
光と香りと音と触れ合いが、やさしく全員を包み込む。
そして水は、何事もなかったような顔で、静かに、でも確かに流れていく。
それはまるで――
惰性に流される日々に、風穴を開けるように🩷。
第5章…そして水は光と音と香りをまとい流れた
フィニッシュ地点に設置された透明な水路。
そこを流れていくのは、ただの水ではなかった。
音と光をまとった水が、まるで舞台の主役のように食堂をゆっくりと駆け抜けていく。
そこには言葉はいらない。全員が見ていた。全員が感じていた。
「……あ、これがクライマックスなんだな」と。
いつもなら、イベントの終わりには、どこか“片付け始める空気”が漂う。
でも今回は違った。
誰もが、まだ席を立ちたくなかった。
なぜならそこには、ただのレクリエーションではない何かが流れていたからだ。
水の流れは、最初こそ遊びだった。
五感を刺激しようとか、香りを使おうとか、音で誘導しようとか、なんだかんだ職員たちが遊び心満載で作った“ちょっと変わったレク”だったはず。
でも、気づけばそれは本物のイベントになっていた。
途中で立ち上がろうとした利用者さんに、職員が声をかけた。
「もうすぐ流しそうめん本番ですね」
その一言に、利用者さんが言った。
「今日は見てるだけだったけど、次は私も食べる番だね」
そう――このレクは、次回につながる「予告編」だったのだ。
水は流れる。流れて、終わるわけじゃない。
その流れは、次の体験に、次の楽しみに、次の季節へと続いていく。
まるで映画の続編が楽しみになるように、まるで旅の途中で次の目的地に向かうように。
「次は、いよいよ七夕本番です」
「今日と同じこの竹を使って、今度はそうめんを流しますよ~!」
司会者のその声に、利用者さんが拍手した。
でもそれは、“誰かに言われたから”じゃない。
自分の中から自然と湧いてきた期待と満足の拍手だった。
香りの演出は、最後にミントへと切り替わる。
扇風機の風に乗って、爽やかな香りがふわっと広がると、どこからか「もう夏だねぇ」という声が上がった。
そう、これはただの梅雨のレクではなかった。
夏の幕開けを告げる“序章”だった。
惰性を超えた瞬間。
職員も、経営陣も、利用者さんも、同じ方向を向いて、「次」への流れにワクワクしている。
ピタゴラスイッチのような一連の仕掛けは、ただの遊びじゃない。
これはもう、福祉施設という舞台で起きた、ちょっとした革命だった。
やがてすべてが流れきり、光が静かに消え、音が止まる。
水の余韻が、ほんのわずかだけ、床に反射して揺れていた。
誰かが言った。「……これ、来年もやろうね🩷」
それは、職員でも利用者でもなく、なぜか理事長だったとか、なんとか。
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まとめ…惰性に風穴を夢に意味を!そしてこのレクにちょっとだけ本気を込める
高齢者施設のレクリエーションは、どうしても“安全”や“効率”に寄りすぎることがある。
その気持ち、よくわかる。毎日の業務に追われていれば、挑戦より「無難であること」の方が魅力的に見えてくる。
でも、そんな空気にふと風穴を開けてくれるのが、「ちょっとやってみる?」のひと言だったりする。
流れる水。響く音。香るアロマ。光るレーン。揺れる風鈴。
そして、みんなで笑った瞬間。
どれも大がかりな装置ではない。高価な設備でもない。
あるのは、ほんの少しの遊び心と、職員たちの“やってみよう”という本気のノリ。
そして、利用者さんと一緒に「同じ方向を向いて笑う時間」だ。
今回の企画は、七夕の予行練習。
けれど、ただの予行では終わらなかった。
「次回の本番が楽しみですね」と言えたこと、そして、その言葉に「うん!」と返事が返ってきたこと。
それがもう、ひとつの“完成”だったのだ。
ピタゴラスイッチのように、すべての仕掛けが美しく連動していく様子は、まるでこの施設の理想の姿だった。
誰かが準備し、誰かがつなぎ、誰かが見守る。
バラバラに動いているようで、すべてがひとつにつながって、最後には「これが、うちの施設のレクだ!」と胸を張れる。
繰り返すようだけど、これはただのレクではない。
福祉施設の“あり方”を、ほんのちょっとだけ問い直す提案書でもある。
惰性という名の安心に頼るのもいいけど、ときには、ちょっとした“ムダな動き”に見える仕掛けが、いちばん大きな笑顔を生み出すこともあるのだ。
介護の未来に必要なのは、技術でも制度でもない。
「やってみようよ」と笑って言える空気かもしれない🩷。
そして何より――その空気を楽しめる人たちの存在だ。
さて。
次は、そうめんを流しましょうか。
ちょっとだけ、お腹すいてきたね。
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